中村天風一日一話

10月12日「記憶力をよくする方法」

有意注意力が習慣化されてくると、自然と注意が注がれる範囲が拡大されていって、一度に多数または多方面に自分の注意を困難なく振り分けられるようになってくる。不必要な消極的観念が心の中を占拠して、有意注意力を攪乱するということがなくなってくる。その当然の帰結として、連想力が正確になり、いわゆる思想の整理が自然に巧妙になされるようになると同時に、記憶力がすこぶるよくなるんです。なぜなら、心の前におかれた事物のいっさいをその心に深刻に印象付けて、細大もらさず心の記憶の倉庫内にいれてしまうからだ。

10月11日「空気の重要性」

人間の生命を確保するに必要な活力は、次の5種の物質の中に包含されている。すなわち、水、土、日光、食物、空気である。

そして、この5種の物質中、われわれの生命の要求する活力の全体を100とすると、空気中から実に八十五%という大量を必要としている。そして残りの十五%を、食物やその他のものから補給されている。

真健康を獲得するには、何をおいてもこの空気というものに対する正しい理解を現実に活用する生活方式を実行すべきであり、活用する生活方式を実行すべきであり、正しい呼吸法を実践すべきである。

10月10日「自分は力だ」

元気という気がでてきたときに、何ともいえない爽快さを感じるものである。とにかく、元気溌刺たる状態で活きることこそ、最も重要かつ大事なのであるから、心の置きどころを常に積極的にするために、「自分は力だ」ということを断じて忘れてはいけない。

10月9日「人あっての自分」

もしも、いささかたりとも、報償を本位とするというがごとき、凡俗同様の卑しむべき心持ちが発生したなら、そのときは「箱根山 駕籠に乗る人担ぐ人 そのまた草鞋を作る人」という古諺を思い出すがよい。さすれば、この世の中に活きるのは、いかに偉くなっても、自分一人で生きられるべきものでなく、人あっての自分、自分あっての人ということが、即座に直感され、その直感が良心に感度すれば、報償を超越した責務感となり、さらに当然の帰結で、その責務感がまごころとなって発露する。

10月8日「人体は水中で生活している」

肉体組織の必要とする貴重なる体液である、唾液、胃液、リンパ液などはいずれも水分から作られる。従って水なくしては、消化作用も同化作用も、その他一切の機能の活動が不可能となる。

だから、「正常な組織の中には常に多量な水がある。従って、あらゆる組織は水中で生活している」という生理学上の見方はまさに絶対の真理である。従って、生命を確保する仕事を行うに必要とする水を飲むことである。

10月7日「心に合理的修練させる」

どんな場合にも、またどんなことにも安心立命で悠々と生活し、健康な肉体を有し、長寿の幸福を克ち得るために、自己統御が必要である。その前提として、本当の「我」というものを正しく信念し得る自覚意識を確立させるために、心に合理的修練を施して本来の境地に心を活かすように心がけねばならない。

そして自分の本質がどんなものであるかがわかれば自己統御も完全となり、そしてさらに精神訓練の効果を積み重ねて立派な人になれる。

10月6日「疲れたら休め」

人間は変化の中にある。その変化と変転にいちいち関わり合いをつけていたら、いたずらに心にムダな重荷を負わしていることになる。「疲れたら休め」のとおり、心も休めてやる必要がある。しかし、肉体は自分の意識で運動をやめることができるが、心は能動的で何かを考える傾向性を持っているから肉体と違う。

だから「安定打座法」で無声の境涯に心を入れることが心を休めることになり、心の旅路のオアシスになる。

10月5日「真・善・美」

いかなる人事世事に応接する際にも、まず心の積極的態度を崩してはならないことと同時に、平素心として真我の尊厳さを乱さぬために、自己の思考内容(特に人生に対する)を信念的に高潔に把持することに専念せねばならない。

しかして、その要諦は、ただひとえに、つねに、真(誠)善(愛)美(和)を本位とする思考を以って、自己の精神生命の現実の姿とすることに努めることである。

10月4日「悪しき想像」

あなた方おおむねは自分の希望する人生状態や日ごろ自分の心でああなりたいなあ、こうなりたいなあという事柄を、ややもすると無制限に拡大し、引き伸ばして考えるという場合が多いんです。

想像を組み立てろといっても、ただやたらに馬車馬的な想像じゃいけない。それを考えないでやっていると、想像している事柄の種類によっては、反対に人格を向下し、品性を堕落せしめ、運命をこばち、人生を価値なくする恐れがある。

10月3日「病は怖ろしきものならず」

一日も早く病を回復させ、本当に丈夫な人間になろうと思うなら、断然病などに負けてたまるかと、一大元気を心の底からかん発することであると、繰り返して進言する。

ましてそうすることによって自然良能作用が旺盛に活動するという真理と事実とを考えると、病というものをひたすらに怖れる必要は少しもないのである。

「病は怖ろしきものならず、これを恐れる心こそ怖ろしい!」

10月2日「他人の憂鬱に影響されるな」

おかしな奴が世の中にいるもので、中には、他人が憂鬱になったり、悲観したり心配していると、同情の垣根を飛び越しちゃって、相手をよけい心配させたり悲観させたりしている奴がある。

そして、もっと飛び抜けた慌て者になると、他人の言葉や行動にまで自分の心を影響させちまって、不愉快になったり、不機嫌になったりし合う人がある。それが人生をどんどん値打ちのないものにしてしまう原因だということに気づかない。これは実に滑稽千万だよ。

10月1日「本当の幸福」

本当の幸福というのは、人生がより良く生きられる状態に自分ですることなんです。自分でしないで、他からしてくれることを待っている限りこやしないよ。自分の現在の生活に自分の心がまず満足しなきゃいけないんだよ。それが生命を高くし、程度を上にした考え方なんだ。

つまり、自分の生きがいを感じる状態をもっと気高いところにおかなきゃいけないんだよ。うまいものでも食って、いい着物でも着て・・・・・こう思うところに本当の生きがいはないんだけれどもねえ。

9月30日「人生の根本理想の四条件」

人生の根本理想は、これを帰納的的にいえば「長さ」と「強さ」と「広さ」と「深さ」という四つの条件が、現実に充たされている姿である。

万一、この四つの条件が一つでも欠けていたならば、人生はおよそ無意義なものとなり終わる。

9月29日「不要残留心」

(ヨーガ)哲学の教養の中にもこういうのがある、「人の心の中には、檻の中に入れられた猛獣がいる。そしてその檻の手入れを怠ると、しばしばその猛獣が檻を抜け出してきて花園を荒らしまわる」と。

この言葉は要するに本能心意の中に人間を苦しめるような、しかも断然人生に活きるのに必要としない心意が存在しているから、その心意のみだりに発動せぬよう常に注意深くそれを自分から監督せざるべからずということを戒めたものといえる。

9月28日「サクセス」の意味

「サクセス(Success)」という言葉は、直訳すると「成功」ね。しかいs、この言葉のもとは「サクシーディング(Succeed-ing)」という言葉なんだ、英語でね。サクシーディングというのは「受け継いで、続けて生み出しますよ」という言葉なんだ。継承して胚胎するという意味なんだ。つまり、絶えざる創造への活動がもたらす自然結果を「成功」というんだよ。絶えざる創造への活動。

同じやっていることでも創造的進化が念頭におかれていれば、その人は限りなく尽きざる幸福感を味わい得るんだ。

9月27日「本当の満足とは」

心の本当の満足というのは、常にできるだけ自分の言葉や行いで、よろしいか、他人を喜ばせることを目的とする。ところが、それを何か他人の犠牲になる、そんな生活のように考える人もありゃしない。

とにかく、他人の喜ぶような言葉や行いを、人生の楽しみとするという尊い気分になって生きてごらん、今日から。

9月26日「本来の生命は完全を望む」

すべての完成を本当に心から喜ぶ気持ちが誰にでもあって、これを壊して、こんどはこういうものを作ろうとするような代償のある破壊なら嫌いはしないけれども、代償のない破壊は喜ばない。

手に持った茶碗をちょいと落っことして壊しちゃったとしても、急いで拾い上げてつなぎ合わせようとするだろ。不完全な姿になって、なんとなく惜しい気持ちがするからなんだよ。

こうした些細な事柄から考えてみても、人の生命の本来は完全に望むっていうことが証拠立てられる。

9月25日「観念の型」

人間の心に何かの観念が出ると、その観念の型のとおりに宇宙根元から微妙な力が働き出し、その観念の型が良ければ良いように、悪ければ悪いようにーわかりやすくいえばー思い方や考え方が積極的であれば、積極的なものができ、消極的なら消極的なものができる。そういうように真理ができている。人間の境遇だとか、その人の現在に同情するということはないのである。峻厳侵すべからずである。

9月24日「宿命統制に必要なこと」

良い運命の主人公として活きていきたかったら、何をおいてもまず、心を積極的にすることに注意深くし、終始自分の心を監督していかなければならない。

そしてまた、宿命統制にもう一つ必要なことがある。それは常に、心の中に感謝と歓喜の感情をもたせるよう心がけることである。習慣として、何でもいいから、感謝と喜びで人生を考えるよう習慣づけよう。この心がけが、宿命統制にすこぶる効果があり、さほど困難でないと悟れることと思う。

9月23日「生命力の使用量」

人々がその人生に活きるために使っている力は、実際の生命力の全体量からいうと、何パーセントかにすぎない。

大抵の人は、自分の生命力の全部を使って生きているかのように思っている。そして自分は、これだけ努力しているのにもかかわらず、一向によい運命もこず、健康も完全にならない。健康や運命は、人間の力ではどうすることもできないものだと決めてしまい、人間の力を、低く弱く評価することになるのである。

9月22日「とらわれない心」

神経系統の生活機能は、心が積極的でないと完全には働かないんだよ。

つまり、心の態度が積極邸ならば神経系統も積極的になるが、心の態度が消極的ならば神経系統の生活機能も消極的になっちゃう。

非常に心が落ち着いて、何のとらわれもないときには、かなり難しいことでも平気でやっていけますよ。ところが、心に落ちつきがないと、やさしいことでも難しくなっちまうんだ。

9月21日「不偏愛」

「不偏愛」とは何を意味するかというと、率直にいえば何ものをも憎まざる公平無私の純正なる愛情をもって、人にも物も、否、ありとあらゆるいっさいに平等に、相接することである。それは繚乱たる陽光と同様に・・・・。

しかも、この不偏愛の実行ということは、ただ単に唯善践行の秘訣であるばかりでなく、厳格な意味からいって、真人生の本来の真の面目なのである。

だから、万一愛の情けに偏りがあるのでは、ほんとうの人といえないのである。

9月20日「無私無我の生活」

現代のような物質偏重の時代であっても、人生の根本哲理は、自我を本位としない生活こそ真の人間に与えられた最高至純の合理的なものであるということに、何の変りもないのである。

いいかえれば、人間は無私無我の生活を本位として活きてこそ、ほんとうの人間としての幸福ー健康と長寿とよき運命ー

を求めなくても恵まれるというのが、この世ある限りいささかも変わることのない、人生に賦与されている宇宙真理なのである。

9月19日「いのちの力の使い方」

いのちの力の使い方ー

結論からいうと、これはきわめて短い言葉で表現することができる。すなわち、「力を入れることに重点を置かずに、力を働かすことに重点を置く」ーこれである。

9月18日「我慢して食べることはない」

病弱者はでき得る限り嫌いなものは食べず、嗜好するものを食すようにするのがよいのである。

これはちょっと考えると、すこぶるわがままなようであるが、多くいうまでもなく食物というものは肉体を修補形成する要素である。しかるにただ滋養という名目のみ捉われて、無茶苦茶に嫌いなものでも我慢して食すということは、何のことはない身体自然の要求に無謀な圧迫と活力の減損だけを招致することとなり、それがいささかも血となり肉とならない。

9月17日「心に使われる」

意思の力の渙発が不十分だと、そのできごとに対応する「心」の操縦が完全にできなくなり、反対にそのできごとに「心」がとらわれて、正当な判断や断定が結局不可能となる。これはつまるところ、使うべき「心」に使われてしまうという、不合理な、憐れな結果である。

9月16日「かりそめの気持ちでやらない」

「正義の実行」を、確実に現実化するためには、何をさしおいても、平素の言葉や行為を、いかなる場合にも、かりそめの気持ちで為すことなく、つねに、本心良心にもとらぬよう、注意に注意して心がけねばならない。

9月15日「人生を立体的に観察する」

生活に負わされている負担とか犠牲という方向のみを考えると、およそ人間の生活くらい苦しく、つらく、悩ましいものはないと思われよう。

しかし、もっともっと立体的に人生というものは観察すべきである。すると、期せずして生活の範囲の広いことと同時にその内容が、ちょうど精巧な織物のように、極めて複雑な色模様でちりばめられていることを直感する。そして、その直感なるものが、生活の中から、相当楽しく、面白く、愉快で、スウィートだと思えるものを、かなり量多く見出してくれるのである。

9月14日「他人の批判より自己省察」

ことわざに「人のふり見てわがふりなおせ」というのがあるが、他人の言葉や行為をやたら批判する人というものは、人のふりにわがふりを正しく照合して、是正しようとはしないで、ただあしざまにそれを批判するだけなのであるから、したがってその批判から少しの価値あるものも、わが心に感得しない。

みだりに他人に批判することを本位として、いささかも自己省察を施さないがために、人生に何よりも大切な自己自身の統御ということに、少しの進歩も向上も顕現しないのである。

9月13日「笑いは養生である」

人間は神経の集積であるので、神経系統をみだりに消極的に興奮させることが、直接間接に生命に危険を与えることとなるのは当然である。人間の個体の生命擁護のために、全神経系統の興奮を鎮める一手段として「笑い」を生体に仕組んである。

事ある時も事なき時も終始笑顔で応接しよう。否、事ある時は一層笑顔を崩さぬように練習するべきである。特に、体の弱い人はひとしお笑いに努力することを養生の第一とするべきである。

9月12日「触覚作用の抑制」

触覚作用は、意思の集中によってある程度までは抑制できる。つまり、病からうける苦痛感や他のものから受ける不快な触覚感のごときは、意思の力とクンバハカ(神経反射の調整法)を用いて、心機を確実に転換しえれば、相当の程度まで抑制できることなんです。

だから、古往今来、偉人もしくは修養の徹底した人が、みだりに寒暑を気にかけたり、病に冒されても容易に苦しいとか痛いとかいうことを口にしないのも、その意志力が積極的に働いて心機転換が巧妙に正確にできた結果であるといえるんです。

9月11日「本当の欲望は楽しい」

かなわない欲望を心に描くと苦しいんだ。真理の上から論断すると、悩んだり苦しんだりする欲望は欲望とは言えないと思う。

本当の欲望というのは楽しい欲望のことなんだ。欲しがりゃ欲しがるほど楽しいのが本当の欲望。だから、すべからく楽しめる欲望を炎と燃やしなさいと言いたいんであります。そうするとその欲望を燃やしゃあ燃やすほど、何ともいえない、人生が豊かなものになるんだよ。これが天風哲学の主張する、燃やしなさい、燃やしなさいという欲望なんだ。

9月10日「たとえ事業に失敗しても」

たとえば、事業に失敗したときでも考えなさい。

「俺は運が悪い」と思わないで、「事業をする場合の心構えなり、方法なりに、大きな間違いがあったことを、天が教えてくれているんだなあ」と。

そして、「どこかに筋道の違っているところがあるんだ。ありがたいことだ。このままつぶれてしまっても仕方がないのに、生かしておいて下されば、盛り返すこともある」と思うことだ。

9月9日「理性の限界」

現代の人々は理性に事物を判断する力があるという点を極端に尊重し過ぎる傾きがある。しかし、理性というものは、心性意識の発達に伴って発達する理智から発生するものであるから、理性そのものにも昨日と今日との間に相当の進歩をするという実際的変化がある。

したがって、われわれが理性を無上のものとして尊重し過ぎることは決して賢いことではない。まして人生の万事を理性に全部依存せしめるという態度ははなはだ誤りである。

9月8日「生命力」の萎縮減退

平素から生存の確保という、生活ということよりも、より以上真剣に考えねばならぬことを実行していない生命には、いかなる方法手段をもってしても相対的な効果はあっても、絶対的な効果を獲得することはできないのである。

というのは肝腎かなめの命から「生命力」が萎縮減退しているからである。そのため、努力いたずらに空しくして効果極めて少なしという遺憾なる結果が心ならずも生じてくるのである。

9月7日「人生、何事も「調和」」

自己の人生の完成を現実に企画するものは、常に何事何物にも「調和」ということを決しておろそかにすべきではない。

現にわれわれの実践する心身統一法なるものは、この絶対真理にのっとって、生命の一大調和を現実化しようとする敬虔な意図のもとに組織した方法なのである。

特に、その基本要諦となっている精神態度の積極化ということこそは、まことに全生命体に対するもっとも根本的な調和基礎をなすという重大なものなのである。

9月6日「頼もしい自己建設」

「頼もしい自己建設」とは、これをわかりやすくいうならば、すなわち「命」を生かす力=「体力、胆力、判断力、断行力、精力、能力」なるものを、量的にまた質的に、自己の生命の内容に充実せしめることなのである。

9月5日「雑念忘念の排除」

心身を統一するときに、一番妨害になるのは心なんだ。雑念忘念をとりさえすれば、人間のすぐれた霊性心、すなわちインスピレーションがでてくる。霊性心が本当に自分の命のものとなると、ぜんぜん今までと違った頭になってくる。いつもクリアなすっきりとした、それこそ磨きたての真珠を薄絹に包んだような気持ちになれますよ。

そうすると、一番先にあなた方は、ああ、人間というものは幸福に生きて、丈夫に生きる方がやさしいわ、ということを発見するはずです。

9月4日「わが人生観」

「人生というものは、忍苦の、あるいは忍耐のというような難しいことを主張するよりは、現在の自分の生きている命に喜びをできるだけ多く味あわせる、そこに真の生きがいがある」。

これが、だれが何と言おうと、私の人生観なんだ。ようく説明するまでにもないことでしょう。喜びのないところに本当の生きがいのある人生というものはないはずであります。人というものは、喜びを感じた時に幸福を感じるんじゃないんですか。

9月3日「不運だと思えば不運になる」

あなた方の心のなかの考え方や思い方が、あなたたちを現在あるがごときあなた方にしているのであります。だから、俺は体が弱いと思ってりゃ体が弱い。俺は長生きできないと思ったら長生きできない。俺は一生不運だと思えば不運だ。

自分の念願や宿願、やさしく言えば、思うことや考えることがかなう、かなわないということは、それが外にあるにんじゃないよ。あなたたちの命に与えられている心の思いよう、考え方というもののなかにあるんだよ。

9月2日「神仏というもの」

私は、神仏というものの存在を、第二義的に人生を考える者には必要ないかもしれないが、自分自身を真理に沿って正しく生かす者に対しては、何ら顧みる必要のない存在だという大きな確信のもとに生きております。

私も先祖は敬いますよ。けれど、私は科学文化の先端に常に自分の人生に対する理解を求めているものです。したがって、私の目には見えもしない抽象的な、何だかわからない神なんてものや仏というものをあてに生きておりません。

9月1日「幸福のるつぼの中で活きる」

自分の住む現在の人生環境や、また世界を、いやらしいとか、いとわしいとか思うような人、あるいは健康に快さを感じない人があったら、その人くらい不幸な人生に感じている人はないといえる。

反対に、現在の自分の住む世界や環境が、たとえ他人から見てそう大したものでないと思われるようなものでも、自分が心の底から本当に満足し、感謝して活きているとしたら、その人は終始一貫、幸福のるつぼの中で恵まれて活きている人である。

8月31日「現実は現実でしか解決しない」

生きていることは現実なんだ。

どんな人間でも現在、自分自身を死んでいるとは思いやしないだろ。生きている、息している、血がかよっている、ものを言ってる、恋をする、何じゃかんじゃ、みんな現実なんだ。現実はどこまで行っても、現実の力以外のものでは解決できないんだよ。

8月30日「本心良心にもとらない言動」

本心良心にもとった言葉や行いというものは、それ自体すでに消極的なんです。積極的じゃないんであります。

というのは、本心良心にもとると、やましい観念のために心の力は常に委縮してしまう。本心良心の発動した場合における言葉や行いというものには、一点のやましいことがないから、どんな場合でも恐れることはないという意味です。ですから、一言ものを言うときでも、ちょいとした手足を動かす場合でも、本心良心にもとらないようにしなければならない。

8月29日「六十の手習い」

老人になると物覚えがわるくなるというが、老年になったために記憶力が減退したのではない。大抵の老人は自身の若い時代のことなどを話し出すと、その当時の事実を細大もらさず実に詳細に述べる。老年になったから記憶力が減退したのではなく、注意力が散漫になり、物事を完全に記憶しないようになったのに相違ない。

老年者でも有意注意を習性化すると、青年に劣らぬような記憶力が作られることからでもこの消息は諒解される。

8月28日「分裂しない心の使い方」

多くの人の心がとかく分裂しやすいのは、何事に為すにも気が充分に打ち込まれていないためである。目前に何かたくさんな仕事が並べられると、頭から面食らってしまう。

反対に平素何事にも気を打ち込んで行う習慣がつけられていると、落ち着きを失わないため、山のような仕事や事件が目前に生じようとも、秩序正しくテキパキと片付けていける。

 

8月27日「得意の時こそ」

人生に、最も注意すべきことは、得意の時にひとしお心の備えを緩めぬよう、心がけることである。

8月26日「心身統一法で増す力」

心身統一法によってその内容量をふやす力、第一が体力であります。第二が胆力。第三が判断力。第四番目が断行力。第五番目が精力。第六番目が能力。この六つの力が生命の中にその内容量を豊富にしていないかぎりは、どんなことをしても完全健康と完全運命を自分の人生のものにすることはできないのであります。

たとえ懐に一文もなくとも、これだけの六つの力が自分の生命のなかに内容量が豊かになれば、人生はこれさながら天馬空であります。

8月25日「不断」と「ふだん」

昔からの訓話に「行修は不断であれ」というのがある。この「不断」という文字は、日常のことを「ふだん」というのと同意義に解釈すべきで、すなわち行修はすべからく日常の生活行為であるべしという意義にほかならずであります。

8月24日「情味を物質に求めない」

真に活きがいのある人生を活きようには、何としても、我々は、自分の人生生活の中の情味というものを味わうということを心掛けるべきである。否、厳格にいえば、この心がけを欠如した人の人生は、いかに地位ができようと、また仮に富を作り得たとしても、しょせんは、無意義で、空虚で、荒涼たるものになる。

多くの人の特にいけないことは、生活の中の情味ということを、物質方面にのみ求めることである。生活の中の情味というのを味わうというのは、心の問題なので、物質の問題ではないのである。

8月23日「喜びの厳格な規格」

私の言う喜びは、そこに厳格な一つの規格がある。

その規格というのは難しくも何ともないの。すべてのいかなる種類の亨楽にせよ、それが絶対に他の人の幸福を妨げるものであってはいけないのであります。でないと、その亨楽が悪になります。

さらに、人を喜ばせて、自分がまた、その人とともに喜ぶということが一番に尊いことなんだ。

8月22日「同情が礼儀ではない」

病気を心配している者、あるいは運命に泣いている者、恋に悩んでいる者がいると、そこに行って、理由のない相槌を打つことによって、何か人間としての、お互いの交わりに対する義務のようなものをかんじる人がある。同情することが礼儀だと思っている人がいる。

しかし、それはまったく毒汁を浴びせかけていることと同じなんですよ。

本人の運命に対して、本当の真心から目を醒まさせてやる努力をする人こそ、尊い存在なんです。

8月21日「本能心の統御」

真に恵まれた人生に活きるためには、まず、肉体本位にのみ、わがままを振る舞いがちな本能心を完全に統御することである。本能心さえ完全に統御ができれば、その他の理性心や霊性心の統御は比較的安易であるといってよい。

しかも、本能心を正確に統御し得るには、意志の力以外には絶対にない。人生を幸福にするのも、また不幸にするのも、煎じ詰めればこの本能心の統御の良不良という一事にかかっているのである。

8月20日「霊性心」

霊性心は、われわれ人類の精神のみに特有された極めて優秀性を有する最高級のものである。普通人には容易に発現し得ないといわれる。かの霊感とか霊智とかいうような特殊のものは、いずれもこの心から発露するものなので、いわゆる神秘的な偉大な思索や、崇高な思想というようなものは、一切この心を本源として形成されるものなのである。

が遺憾ながら、この心の働きや力にたいしては、あまりにも知らなさ過ぎるくらい無理解なひとが多い。

8月19日「理性心」

理性心というものは、事物事象に対する推理推考を司る心で、俗に理性というのは、この心の活動現象に対する名称である。

学者の中には、人間の心の中には本能心より階級の高い理性心というものがあるから、本能心はこの理性をもって統御支配するのがよいと説いている人もある。

がしかし、これには断然私は不同意である。理性心には完全に本能心を統御する力がないからである。

8月18日「本能心」

本能心は人間の肉体生命の生存を確保するために存在している。したがって、人類生命中の動物的方面の生存と生活に必要な各種の作用や職分をこの心が司っている。

たとえば、食欲、性欲、その他肉体の欲求から発生する各種の欲望、または一切の感覚念などといったものがそれである。一般の動物的感情情念、すなわち、闘争心、復讐心、憎悪心、猜疑心、嫉妬心というような動物本来特有の低級心性もこの本能心から発露しているのである。

8月17日「心の区分」

心というものにどんな区分が存在しているかというと、心にはその性状と活動の状態から大別すると、次の二つのものがある。すなわち「肉体生命に属する心」と「精神生命に属する心」である。

そして、肉体生命に属する心の方は、さらに、これを細分すると、その内容に「物質心」「植物心」「本能心」という三つのものが存在する。一方、精神生命に属する心には、「理性心」「霊性心」という二つのものが、その内容をなしている。

8月16日「大事に臨んでは落ち着け」

消極的に思考すればするほど、精神は統一を失ってとうてい正確な判断を得られない。「大事に臨んでは落ち着け」という諺がある。否、大事に直面したときはもちろん、どんな小事細事にも、常に虚心平気の心的態度で物事を考察すべきが絶対の真理である。

関係のないことだと、自分でも感心するような名案や工夫がでるが、わが身に直接に降りかかった問題だと、よい分別が出にくいのも、その時の心的状態がすこぶる大きい関係をもっている証拠である。

8月15日「何事にも真剣に」

まず何事をするにも、真剣な気持ちでそれに当たることです。すなわち一時一物いやすくもせず、すべてを真剣な気分ですることである。

言い換えると気なしで何事もしないようにすることである。この気構えはちょっと考えると小乗的な方便のようだが、しかし大乗的な方便に共通したものだと私は断定する。要は気をこめてやらないから、心がいつしか他方へ分裂逸散するのであるという因果関係からの、正方方便なりといえる。

8月14日「言霊」

言葉は言ってしまった時に、その音響はなくなっちゃているようだが、波動は残っている。その波動が残っているということを考えてみたならば、かりそめにも我らが口から人の幸福を呪ったり、人の喜びを損なうような言葉は冗談にも言うべきでないということがわかりはしないかい?

とにかく、お互いの気持ちに勇気をつける言葉、喜びを分かち合う言葉、聞いていても何となくうれしい言葉をお互いに言い合おうじゃないか。言葉はねえ、言霊というのが本当なのよ。言葉は魂から出てくる叫びなんだから。。

8月13日「天は自ら助くるものを助く」

何かにつけて、やたらと人の助けや援護を求める。

誰でもよく知っている諺に、「天は自ら助くるものを助く」というのがある。この言葉が明らかに、人生他力のみをあてにしては断然だめであるということを、合点せしめてくれているといわねばならない。

8月12日「信念がなければ結実しない」

もちろん、人生を幸福にするには、富も経験も、理智も計画も、その他必要なものが多々あるに違いない。しかし、そのいずれも、信念がなければ、理想通りに完全に結実しないのである。

ところが、世の人々の多くは、幸福の獲得に金の力、知識の力、または経験の力や計画の密度にのみ重点を置いて、信念をさして重大視しないのである。

要するに世の中の進歩に比例して、ほんとうの成功者も、また健全な生命をもつ者も数において本当に少ない原因的理由は、これらの点にあるといってよいと思う。

8月11日「円転滑脱」

円転滑脱、のびのびした気分で、力をスムースに働かすといった行き方でないと、多端な人生に活きていく「力」が、長く保てないことになる。

ましてや、今日のような複雑な感覚のある時代に活きていくには、一層に「いのちの力の使い方」ということは、最も大切なことである。

8月10日「自制自助」

健康建設の要諦は、

(A)肉体内部の生活力の積極化

(B)肉体の対外抵抗力の積極化

という二つの条件を完全に解決することである。

また、真健康の建設と確立とは、これを結論的にいえば曰く「自制自助」の二字につきるのである。すなわちこの自制と自助とが一切を積極的に現実化する根本なので、第一この二つのものが欠如していたなら、どんな有効な方法も手段も決して目的を達するまで永続せず暫間的に終わってしまうという怖れが多々ある。

8月9日「人生の勝利者」

人生に対して、積極的精神をもつものは、常に、健康や運命の勝利者となり、あらざるものは、敗北者となる。

8月8日「合理的自己陶冶法」

まず平素の自己の言語と態度とをできる限り積極的にすることを真剣に心がけるということなのである。詳しくいえば、我が心の中に動物心性中の低劣な欲念や感情がたとえ発動することがあろうとも、断然それを言葉や態度に表現しないように注意深く努力することなのである。

そして何故こうすることが本能心意の整理に対して効果があるかというに、心理的にいえば、本能心意に対して外的自己誘導暗示が作用するためなのである。

8月7日「峻厳なるかな人生」

まこと、峻厳なるかな人生は=それは、どんな富の力を以てしても、さらに地位や名誉の力を以てしても、到底完全には解決しない。

まして、屁理屈や、空いばりや、間違いだらけな自己断定や、独りよがりのうぬぼれを以てしては、なおさらのことである。

8月6日「感覚器官を正確に使う」

我々の人生の周囲に存在するすべての事柄は、取り入れ方がよけりゃ、我々の心の力を非常にすぐれたものにするけども、反対に、同じものでも取り入れ損なうと、抗議の方面へと働きだすんですよ。

外界の印象を取捨分別することは言葉を換えていえば、感覚器官を正確にしようすることなんだ。そうしてはじめて、本当にすぐれた勘の力がでてくるんです。

8月5日「消極的な十の心」

消極的というのは、およそ十ある。

第一が怒ること。第二が悲しむこと。第三が恐れること。第四が憎むこと。第五がやきもちをやくこと、うらやむことだね。第六が恨むこと。第七が悩むこと、懊悩すること。第八が苦労すること。九番目が煩悶(はんもん)すること。それから十番目が迷うこと、混迷すること。

この中のどれかしらがあなた方の心にあるとき、それは心が消極的な方面に働いているときなんです。

8月4日「金や物質に惑わされない」

金持ちはみんな幸福かいな。金や物質なんていうものは、仮相の存在で実相の存在じゃないんだから。第二義的な人生は、どこまでいっても相対的なんです。多少の効果はあるとしても程度問題で、それ以上はでていかないんです。

人間を判断し理解する認識のピントがぼけて焦点が狂っているとき、いくら努力しても、そうして幸い幸福になりそうな金ができても、地位ができても、真の幸福も健康も完全に得られませんよ。

8月3日「世の先覚者として」

今や、世はまさに複雑混沌の時勢である。そして、正当の人生自覚をもたぬ人々は些細なことにも心の平静を失い、憤怒の激情や煩悶や憂欝の劣情に陥りやすい。

したがって、すなわちこのときこそ、人生真理をよく理解し、かつ尊重するわれわれが人の世の正しい先覚者となって、できる限り平和に活きる人生のときの長からんことこそ、真の人生の本来の面目であることを、事実の行為を模範として明示すべきである。またそれをわれわれの最高の理想とすべきである。

8月2日「平然自若の精神」

どんな大事に直面しても、どんな危険な場合に直面しても、心がいささかもそれによってあわてたり、あるいは恐れたり、あがったりしない、いわゆる平然自若として、ふだんの気持ちと同じようにこれに対処することができる状態。どんな目にあっても、どんなに苦しい目、どんな思いがけない大事があっても、日常と少しも違わない、平然としてこれに対処する。

これが私の言う積極的精神何であります。

8月1日「人間の心の大きさ」

真剣に気づかねばならないことは、人間の心の大きさである。

月を見て佇めば、心は見つめられている月よりも、さらに大きいということを考えられはしないか。星を見て考えている心の中は、大きなものを相手に考えているんだから、それだけで、星以上に大きなものではないか。

星を見て、その星よりもさらに洪大な様子を心は想像できる、という簡単なことを考えただけでも、いかに人の心が一切をしのいで広大であるか、ということがわかってくるはずだ。

7月31日「宗教と天風哲学」

多く言うまでもなく、人生はどこまで行っても現実の世界なんだから、それを忘れちゃいけないんだよ。死んでから後が人生じゃないんだから。

死んでから後のことをまで考えようとするのは宗教なんだ。天風哲学は死んだ後のことなんか考えやしないもん。死んだ後というものは明日以降のことなんだもんね。現在ただ今生きているこの人生というものを考えていくということが私の主義であり、主張であるんだから。

7月30日「悟れたと思った時が迷いなり」

「悟れたと思った時が迷いなり」というのは、人生には、もう完全に理解したとか、あるいは卒業いたとかいうことはありえないのである。否、断然ありえないのが人生である。否、否、人生とはそんな単純なものではないのである。

人の一番大切な、心の動きを左右する「感応性能」なるものが、その積極化を強要する点において、何ら限度がないからである。換言すれば、久劫永遠の宇宙生命と相対比例の下に、まことにそれは驚異に値する無限的な存在以上の実在であるがためである。

7月29日「悩みのない心」

「悩み」のないときは、心頭に取り越し苦労というような思念現象も、またその他の消極的感情情念もいささかも発生していない。だから、この現象に鑑みるとき、明るい朗らかな人生に活きるのには、まず悩みというような心理現象を心に持たせぬよう、平素正しい準備を施すことが、何よりも肝心な人生の要諦なのである。

7月28日「意志の力」

極言すれば、人生を幸福にするも不幸にするのも、心の統御にかかっていると言ってもいいくらいなのである。この心に対する絶対の統御力を有する意志の力というものこそは、広い意味で、人を美しく向上させる原動力だといえる。

傑出した人物は意志の力が強い。その強い意志の力で自己の心はもちろん、人生の一切を完全に統御し、よく群を抜いて結果を残したのである。

7月27日「心はパイプと同じ」

どんなことがあっても忘れてはならないのは、心というものは、万物を生み出す宇宙根元の有する無限の力を、自の中へ受け入れるパイプと同様である、ということである。パイプに穴が開いていたら、洩れてしまうだろ。だから、そっぽを向いていたら何もならないよ。

パイプでわからない人は、光を通す窓だと思いなさい。あるいは電流を通ずるワイヤーだと思えばよい。

7月26日「要は自分なりの心がけ」

やれ、病の、煩悩の、貧のと、人生にたえず何がしかの不運のようなものを感じて活きている人は、要するに、自分の心がけが悪いためだと、遠慮なくいえると思う。

7月25日「正義の実行」

人生の光明あらしめんには、まず、正しい運命を作ることである。それには宿命を統制して活き、天命に安住することである。宿命を統制するには、常に正義を実行し、運命を選ぶ法則を自覚することである。正義を実行すると、それが自然と運命を選ぶ法則に合致し、生命の本質である。いわゆる、生命を形づくる「気」を汚さぬことになる。

正義の実行、すなわち、本心良心の命ずるままに活きることが、期せずして崇高な心を発現することになるのである。

7月24日「汝自身を知れ」(ソクラテス)

"Know thyself"-------

この語は、学者や識者の多くがいうような、単なる処世上の教訓や道義上の訓戒ではなく、もっと尊い人生消息を喝破したものに相違ない。すなわち、「人々よ人間の本質を目覚めよ!」という、人生自覚の一大示唆を含蓄したものである。

実際、この言葉を、玩味すればするほど「人間というものは、多くの人々の思っているよりも、はるかに尊いもの、はるかに崇高なものだ」ということを、切々としてわが心に感じる。

7月23日「理想の積極心とは」

積極精神とは、事あるも事なき時も、常にその心が、泰然不動の状態にあることをいうので、要約すれば、何事があろうと・・・・たとえば、病難に襲われようと、運命難に陥ろうと、心がこれを相手にせず、言い換えるとそれに克とうともせず、また負けようとも思わず、超然として安如たることを得る状態が、天風哲学の理想とする積極心=平和を確保し得た心的状態(絶対的な強さをもつ心)なのである。

7月22日「不運はカルマのせいならず」

人間がときどき病になったり、不運命になるのを当然のことと思ったり、または避けることはできないやむを得ぬ業(カルマ)のように考える考え方は、断然訂正すべきである。

特に、健康難のごときは、人間の寿命の絶えるとき以外は、そうめったやたらと、病に冒されるはずのないのが絶対の真理である。

7月21日「積極の四条件」

積極ということには峻厳侵すべからざる四つの条件があるはずである。すなわち、尊さ、強さ、正しさ、清らかさ、という四大要項である。そして、この聖なる心的態度に現実に到達すべく、心身統一法はその実際方法=how to do?に、常に普段の主力を注いでいる。

そして精神態度が完全に積極化し得れば、万人の求望する成功ということが何事にも可能のことで、あえて至難のことでないということも自ずから諒解される。

7月20日「残心」

「残心」という言葉は、真剣抜刀術の用語で、簡約すれば「終始心構えに油断あるべからず」という、抜刀法術練行の際、最初から最後まで、一貫せる心構えを忘るるなかれとの戒慎の言葉なので、昔の格言に「終わりを慎むこと始めの如くあるべし」というのと、その意味両々相融通しているのであります。

7月19日「理屈じゃないんだ」

人間の生命エネルギーの中枢の母がつくる一番大根大もとは、科学的の考えてもいけない、哲学的に考えてもいけない。あるものはあるのだから、あるものとしてあるとして考えられる考え方が一番いいんだ。哲学者が考えればこうだ、あなた方ならこうだという考え方をするものだから、ごたyごちゃになっちゃう。

「あるものはある」これは科学でもなけれれば哲学でもない。「あるものは、ある」それを理屈なしに考えるのが、考え方として本当の考え方じゃないか。

7月18日「悪習を断ち切る」

およそ不平不満を口にするほど恥ずかしいことはない。それは、自分の心を統御できていないことを宣伝しているようなものである。

その実、不平不満を口にするからこそ、進歩向上があるのだと誤解している人がいるが、このような人は人生の荒海に翻弄されている哀れな漂流者である。

だから価値ある人生を送りたいと願うのなら、この悪い習慣をすぐさま断ち切って、荒波を乗り切るための積極心を作る努力を日々怠らないことである。

7月17日「円満融和の実行」

日常の人生生活を、自他のいずれに対しても独り決めのわがままな自己本位の気持ちではなく、お互い人間どうしの間柄をきわめて円満に融和するような、普遍的妥当性のある言葉と行為のみで行おうと心がけて、かつそれを確実に実行することである。

そうすれば、それが期せずして、一切すべてがそのまま善なるものに共通するからである。

7月16日「内省検討のすすめ」

現在の自己人生のすべてに対して、自己の「心」が積極か消極かということを厳しく公平に検討して、自己の健康や運命、その他一切の人生の出来事に正しく対応処置すべきなのである。

7月15日「因縁」

このたくさんの数多い人の中から知り合いになったということは、とうてい人智では究明することのできない、因縁という不可思議な幽玄微妙の作用のいたすところである。しかるにこの因縁という不可思議な作用によって結ばれて、知り合う仲となったものを、己の気に食わぬとか、あるいは心に合致しないとか、彼にはこういう欠点があるとか、または与しがたき習癖があるとか等々の理由をつけて批判排斥して、せっかく結ばれた因縁を無にするというのは、天意を冒涜する者というべきである。

7月14日「日常生活で注意すべきこと」

特に注意すべき問題は、いかに観念要素の更改を現実化すべく、会得した方法だけを熱心に実行していても、平素日常生活を行う際に、ややたらと不平不満を口にしていると、捨てるそばからすぐ拾うと同様で、文字通り九じんの功を一きにかく恨みを作為することになる。

7月13日「観念要素の更改」

人生は苦の娑婆だなんて言っているのは悟りを開けない奴が言っている寝言ですよ。生きる正しい方法を知って生きたら、人生ぐらい愉快な、人生ぐらい恵まれた、人生ぐらいありがたいものはないんですもの。結局、心が人生を感じる感じ方でそのまま極楽にもなり、地獄にもなるわけだ。

そこで、心に極楽を感じせしめて生きようとするには、心のなかを掃除しなければだめなんです。クリーニングしなきゃだめなんですよ。それが「観念要素の更改」というんです。

7月12日「まごころ」の尊さ

ちょっと一杯の茶を出すのでも、「ハイ」と返事をするような些細な行為でも、そのとき、何の報償をも念頭に置かず、すなわちその人に気に入られようとか、あるいは、好感をもたせようとかいうような気持でなく、そこに一点何の求むるものなき、純一無雑な「心」で、それが行われるとき、その行為から、形容のできない温かいものを感じる。それはすなわち、「まごころ」というもののもつ尊さの感応である。

7月11日「生活がすなわち修行」

すべての実行を、一時間二時間というような長い時間を行うことを修行の条件に思う必要はない。人生修行のためと言って、貴重な人生の時間を犠牲にする必要はない。もしそうしないとできないような方法であるならば不適当なものであると円了なく言いたい。

「心身統一法」の本領は、生活がすなわち修行という信条のものである。日常の仕事を行いつつ安易に実行するのが理想なのである。機会がある時に、一呼吸だけでも良いのである。

7月10日「心の置きどころ」

世界の本質が自然から作られ、自然の中に計り知れない働きを行う霊智がり、その霊智が見えない人間の生命の中にある心というものの態度で、その受け入れ方が違ってくるなら、自分を完全に活かすには、心の態度を取り替えるのが、先決問題ではないか。

心配しながら死ぬよりは、「死」から自分の心を遠ざけて活きている方が、同じ死ぬにしても死ぬ刹那まで気楽ではないか。

しょせん、人生は心一つの置きどころ。

7月9日「たびたび喜びに生きる」

人生の価値の主題は7,そも何であろうか?

天風はあえて昂然と断言する。

曰く「いかなる場合にも、心に喜びを感ぜしめて生きる。換言すれば人生の一切のすべてに対して喜びに生きること、ただこれ一つだ!」と・・・・

これは、ただ単なる感覚的に快さを感じ得るであろうからの言葉でもなければ、またそう考えることの方が、そう考えない反対の考え方より何となくうれしいものに思えるからというような、単純な考え方から割り出したものでもない。

7月8日「病は忘れることで治る」

肉体は生きるための道具と考えてごらん。頭が痛かろうが、けつが痛かろうが、脈が速かろうが、それは自分がそうなっているんじゃない、と。自分の命を入れる入れ物に故障ができただけで、その故障はありがたいかな自然に心がそれらから離れさえすれば治るようにできているんだってことを、ありがたく感謝しなきゃだめだぜ。

消極的観念がなくなると、肉体のもってる自然作用がその場所をもとの健全な状態にするために働きだすようにできているんだよ。病は忘れることによって治る。

7月7日「意志力が弱る三つの原因」

意志の力が弱るには三つの大きな原因がある。

第一に潜在意識の中に非常に消極的な観念要素が知らない間にうんとたまっちゃうこと。第二には、平素の人生を生きる場合の精神生活態度が、これも気がつかないとは言いながら、いつも臆病で引っ込み思案的なものであること。第三番目は、人間が生きて行く刹那、刹那にさけられない感情や感覚のショックや衝動が、神経系統の生活機能に手ひどく悪い影響を与えているということ。

7月6日「現在あるもので満足する」

もしも、諸君が何か人生に物足りない、不平を感じるようなものがあったら、それは自分の心がまだ卑しいからだと考えなきゃだめざぜ。

何か欲しいな、欲しいなと思うものが自分のものにならなかったら、現在あるもので辛抱しなさい。現在あるものでありがたいと思いなさい。そうすれば、けんかにならないじゃないか。ところが、現在あるものにはなかなか感謝しませんよ。それで、ないものばっかり欲しがる。

7月5日「絶対的積極」

心がその対象なり相手というものに、決してとらわれていない状態、これが絶対的な気持ちというんだよ。何ものにもとらわれていない、心に雑念とか妄念とか、あるいは感情的ないろいろの恐れとか、そういったものが一切ない状態。けっして張りあおうとか、対抗しようとか、打ち負かそうとか、負けまいといったような、そういう気持ちでない、もう一段高いところにある気持ち、境地、これが絶対的な積極なんですぜ。

7月4日「年寄りの引っ込み思案」

人生における価値高い目標とは、いかなる場合があろうとも自己を正しく向上せしめることなんだ。今日よりも明日、明日よりも明後日というふうに自分を日々プロモートさせることを考えなければいけない。

若い時はみんな、言われなくてもその気持ちが心の中に燃えていますよ。けれど中年を過ぎて、しかも相当働いても思うことが思うようにならない、勉強したくてもする暇がないっていう人は、いつの間にか情熱が薄れちまうんだ。それが年寄りの引っ込み思案っていうんだよ。

7月3日「人生の不幸の原因」

人生の不幸というようなものは、他から降ってわいてくるように、自分の人生に飛び込んでくるもんじゃないんだ。いつもよく吟味してみると、人生の不幸というものは、自分が知らざるとを問わず、自分自身が原因となっているという内的事情を発見しないと、何か思わざる不幸が出てくると、その原因は他にありと考えてしまい、その不幸に処する場合に、自己に責任観念がないから、どうしても自分というものをその不幸の淵から救い上げることができないという、ひどい結果がきてしまう。

7月2日「他人との交際態度」

他人と相対する時、常に元気に満ちた態度を保持し、できるだけ積極的な言語を用いて会話することが必要である。わかりやすくいえば、決して意気の消沈した態度や、泣き言や愚痴やまして不当な欲念や消極的の感情概念を、かりにも口にしないこと、また行わないことである。

言い換えれば言葉よりも行動も溌剌颯爽としていなければならない。この心がけの実行を怠りなく持続すれば、実に予想外に本能心意が積極的に整理され得るのである。

7月1日「オンリーワンページ」

多くをいうまでもなく、人生はオンリーワンページである。どんなに人智が進歩しても、二生は絶対にないのである。

そうである以上は、何としても、今生の現在は、かりそめにも少しでも不幸を多くすべきでない。

しかもこの自明のことを現実化するために何よりも必要な根本要素は、自己の言行の一切に対して信念を堅持することである。

6月30日「人間の能力」

「人間の本来の面目は創造的なものである。それゆえに人間が万物の霊長としていっさいの生物を凌駕して優秀なる能力を、生まれながらに賦与されているのはこれあるがためである。しかも特におろそかにできないことは、その賦与量はいささかも差別のない公平なものである。」

この一事を考量されても、自己の現在使用している能力に対する反省が厳格に行われて、その「是正」が確実に施されるなら、いっさいのすべてはことごとく可能に転換され収握されることも、また必然自明のことを感得される。

6月29日「行」とは何か

「行」なるものは決して特殊の方法や手段を、特定の時間や場所で、特殊に行うことではなく、その方法や、その手段そのものが、そのまま自己の生命を活かす方法になっていることで、これを客観的にいえば、その方法や手段でその人はその生命を生活せしめて、その生命を確保しているということになるのであります。

6月28日「自然は命の故郷」

多くいうまでもなく人間は、自然の中に自然の力でその生命に活かされている。

この事実を、哲学的に形容すれば、人の命は、自然というものをその故郷としているといえる。と同時に、科学的に論断すれば、自然というものは、一切の生物の生命のエレメントを為すものだといえる。

6月27日「見えなくてもある」

科学的教育を受けた者は、感じないもの、見えないものはないものだと思っている。すぐに「証拠は?」と聞きます。

第一に、我々の生きている現在の大気の中には、酸素、窒素、その他の我々の生命活動を力づける必要な要素が存在しているということは、だれにも見えやしない。それでも、見えなくたって、あると信じていますよ。「証拠は?」とは言いませんよ。人間の住む地球上には、電波が縦横無尽に交錯しているということは、形が見えなくても疑わないでしょう。

6月26日「悩み」と縁をきるために

およそ「悩み」ほど、人生を暗くするばかげた心理現象はない。

ところが大抵の人は、悩みを持たない人間などいるはずもないという誤った考えを持っている。これこそが、取り越し苦労、あるいは消極的な思考や感情を常とする証拠でもあろうが、人間の心には、その統御が完全でありさえすれば、すなわち、真理に合致して積極的でありさえすれば、「悩み」などという心理現象は絶対に起こらないのである。よって、その消息をしかと認識すべきである。

6月25日「生命は向上する」

人間の生命の力を、向上的のものであると気づかぬ人は、その一生を平凡無為に終わることとなる。

6月24日「まず気分から若返る」

年寄りじみたものの言いようや動作をできるだけしないように注意することである。ものを言うときも、溌剌とした気分で、丹田の力で、できるだけ勢いのある音声を発するようにし、立ちふるまいも活発にすることである。

いわゆる若返り法や健康法の効果をあげることの根本にはこれが必要である。要するに、第一に必要なことは、まず気分から若返ることである。すなわち精神を青年にすることである。これが命の源泉である。

6月23日「和について」

和とは不可分の統合すなわち、YOGAのことである。人間の人間らしい活き方とは、心身の統一、すなわち、心と肉体とが輪となった生き方である。これ以外の活き方では、本当の人間としての真の価値を発揮を発揮できない。生命の「和」がみだされれば、肉体も精神も、その健康味を発揮することができない。特に、精神の不健康は、社会をも濁らすこととなる。なぜならば、人間としての道義性と情義性が、著しく欠如して、どんな場合にも、そのふるまいが自己本位に堕するからである。

6月22日「心身統一の効果」

あらゆる力というものは、「気」というものから生まれる。人間が人間の生命のありのままの姿である心身一如の現実にするため、心身を統一した活き方を行えば、当然生命存在の根源をなすところの、「気」というものの収受量が増大する。そして命の力の内容量もまた当然豊富となり、それが精神方面の表現をすれば体の力となる。人生建設の根源要素となる体力、胆力、判断力、断行力、精力、能力の六つの力も、これに応じて優秀化してくるのである。

6月21日「人間の大使命」

人間は、この世に病むために生まれてきたものでもなければ、また煩悶や苦労をするために生まれてきたのでもない。否、もっと重大な使命を遂行するために生れてきたのである。

その大使命とは何かというと、「宇宙原則に即応して、この世の中の進化と向上とを実現化することに努力する」ということである。すなわち、人間はこういう尊い大使命を推敲するために現象界に生れてきたものである。

6月20日「平素に生きる心がけ」

平素の人生に生きる際の心がけとして、でき得るかぎり努めて、気分を明るく朗らかに、生き生きとして何事にも応接することを忘れないようにすることです。

ところが、自分の気持ちのいいときだけは気持ちよく応接できるけれども、少しでも心のなかに暗いものがあると、もうすぐその応接のうえにも非常な相違がでてくるというのが、世の中の多くの人のありさまでしょう。

結局、努力ですよ。常に明るく朗らかに、生き生きとして何事にも応接するという気持ちをつくることは。

6月19日「勇気をくれる言葉」

とにかく一日の人生を活きるときに、お互いの気持ちに勇気をつける言葉、喜びを分かち合う言葉、聞いても何となくうれしい言葉をいい合おうではないか。

人間の気持ちはまことにおそろしいものである。私は平素いくらも経験しているが、たとえ医学上からみれば助からないような病人の枕元に行っても、ことらが元気で積極的態度のときには、その人間の状態がずうっとよくなってしまくものだ。

6月18日「不幸は幸福を招く原動力」

不幸に直面したら、まずその不幸に際しても、なおかつ生命を失わずに現実に活きていられることを感謝することに心を振り向けるべきである。

するとそうした心がけそれ自体が、幸福を招いて来る原動力となるのである。

6月17日「人間の尊さ」

人間には、人間がひとたび自分自身の本質の尊さというものを正しく自覚すると、「心」が自然と自己自身を気高い人生に活きるようにリードするという必然性がある。だからそうなるとその人は、必然的にどんなわずかな時間でも、いつも価値ある人生を活きられることになる。

そもそも人間の本質というものが、いかなる尊さをもっているかというと、人間というものは、厳格に論断すれば、健康的にも運命的にも、常に幸福に恵まれるように、本来が作為されているという点に帰納される。

6月16日「なんのための人生か」

人生はたった一回かぎりのもの。一生は一生であって、けっして二生ではないんです。ですから、自分自身の人生は、もうこれ以上はないってくらいに価値高く活かさなければ、なんのために生まれてきたやら、ほんとうにもったいないですよ。

そして、人生を幸福に生きる、生きがいのあるものにする、思いどおりの人生に生きるためには、なにより、あなた方の生命の大根大本となる、命というものを大切にしなければ、どんなに立派な人間になっても、それはなんの意味もなさなくなってしまうんです。

6月15日「原因結果の法則」

およそ人生には、人生を厳格に支配している一つの法則がある。それは原因結果の法則である。そして人生というものは、その人が自覚するかしないかを問わず、この法則を応用する度合に比例する。そなわち、

「蒔いた種の通り花が咲く」

という法則なのである。俗にいう善意善果、悪因悪果の法則である。人間の運命の中に地獄を作り、また極楽を作るもの、この法則があるからである。

6月14日「人間の心の本質」

誰でも人間である以上は、心というもの、めいめい持っているということは、知っているが、この人間の心の、本当の、本質というものを知って活きている人は、きわめて少ないのではないかと思われる。

率直に言うと、人間の心の本質というものは、真・善・美という尊いもので、それは大自然の調和と同様なものなのである。

6月13日「朗らかな活きがい」

実際、たのしい、面白い、うれしい、という観念が心の中に生じた時ほど、朗らかな活きがいを人生に感じることはない。

そして、それがどんなに健康にも運命にも直接間接顕著な効果を与えるかわからない。ということに想到する時、よりいっそうの貴い価値を感じる。

しかり、おそらくどんな名医名薬といえども、この観念以上の効果は絶対にないと、私は私の長年の経験で断言する。

多くいうまでもなく、人生は畢きょう「心」である。「観念」である。

6月12日「真理は厳しいもの」

自然界に存在する人間への掟はまことに厳しい。しかも、これは千古変わらず、久遠のその昔から永遠の将来まで、証として実在している。真理は、「おまえはそういう場合だから特別にみよう。まあとにかく、今度は機嫌のいい時に教わったようにおしよ」ということは言いやしません。

真理は峻厳にして侵すべからず。間違った生き方に対する正しい心構えが万一にも用意されないと、たちまち、事実があなた方に反省を促します。その反省を促す事実とはいかにと言えば、病なり不運なりです。

6月11日「傑出した人物」

実際、古今ともに、いわゆる傑出した人物というのは、いずれもみんな有意注意力が完全な人々のことを言うんだ。何事に対しても周到にその観念が総合され、したがって精神も統一され、その結果すべての能力が同輩をしのぐために、いやでも自然と傑出しちゃう。

だから、いつも何事でも自分の好むことをおこなうときと同様に気をこめておやりなさい。

6月10日「理性心と本能心」

理性心というのは、早い話が、何の力もなく、ただ小理屈こねて、べらべら、さみだれ小言のようなことばかり言い続ける家庭教師みたいなものなんです。本能心の力は、始末におえないわがままな子供みたいなものです。ぶつぶつ、くだらない小言ばかり言っている教師にわがままな子供を躾させたって言うことを聞くもんかい。

理性心はものの善悪、邪正、曲直、是非というもの見分けますよ。けれども、この理性心には本能心を統制したり、いわんや、整理する力はないんです。

6月9日「理想的な人間生活」

私はあえて断言する。

人がなんと言おうと、この世の人々のすべてが、旧来のとらわれた、しかつめらしい道徳観や倫理観かなら離れて、人間の生物的本能である感覚的享楽を、他の人の幸福を妨げない範囲で喜び、楽しめるように心がけるならば、そこに期せずして、人々の生きがいある、楽しい、のどかな、理想的な、本当の人間の生活ができると、こう確信したのです。

6月8日「不運から心を離す」

病なり運命から心が離れたときは、病があっても、その人は病人じゃない。運命が悪くても、その人は運命の悪い人じゃない。ようく寝てる人間は何も知らない。何も知らない人間に病があるか。目がさめて、ああ、病がある、と思うんじゃないか。

運命がよくっても、いいか、運命が悪いときのことを考えてりゃ、その人が運命が悪いのと同じだ。そのくらいのこと、改めて私から聞かなくたって、もうわかってるはずだ。

6月7日「自分本位の考え方」

自分自身を本位として、自分の家族や、自分の利害関係のある周囲だけの幸福や利益を重点として、それで金をつくってみたり、地位をつくってみたり、名誉をあげてみたり、あるいは自分の事業の成功というものにキュウキュウとして、それで万事オーケー、それが人生のすべてのすべてだというふうに考えている人が、とくに現代の物質文化の時代には多いんであります。

6月6日「心おおらかに」

人おのおの運命に活きる人世なれば 心おおらかに 過ごさんものを

これを自分で、歌に作っているだけに、自分でこれを実行している。これは、ほんの瞬間の自分の心の持ち方だ。瞬間、消極的なことは、心の中に入れないことだ。しかし、入れないように頑張ると、心の中で戦争しなきゃならないから、ふっといなしてしまえばいいんだよ。

6月5日「人間は力の結晶である」

命の力を豊富に受け入れられる活き方とは、いかなる場合にも心の態度を積極的に保つことであって、どんな場合にも最高度に引き上げられた自己認証をゆるがせにしないことである。

どんな場合にも、、人間というものの生命は、一切の生命をしのいでいる力の結晶だ、と正しく思いこんでしまうことである。そしてこれを、いかなる場合にも、心にしっかり堅持することである。

 

6月4日「食欲と空腹を混同しない」

いかなる時に食物を摂取すべきかというと、真に食したいと感じた時、それがすなわち食事を摂取すべき時である。

真に食したいと欲する時が肉体が食事を要求している時であるが故、格別食したくない時でも定められた食事の時間だからといって無理に食物を摂取するのは、きわめて不合理なのである。

注意すべきは食欲と空腹を混同しないことで、食欲の生じた時を、真に食したい空腹時と誤解していると往々食欲にまかせて暴飲暴食となり、自ら好んで病を作ることになる。

6月3日「思っただけじゃだめ」

いくら心の持ち方を積極的にすることが理想だといっても、その理想を妨げるような、いわゆる日常生活を克服することができなければだめなんだ。そのためには克服できるようにする方法を実践しないで、ただ、克服したい、信念の人間になりたいと思っただけじゃなれやしない。

考えてごらん。お風呂の脇に立っていて、沸いているお湯をみているだけでもって、身体がきれいになるか、きれいにならないか。お風呂には入って洗い清めなければだめだろう。それと同じことだ。

6月2日「鼓舞奨励を望むは恥」

人を鼓舞奨励することは非常に尊い。

しかし、人から鼓舞されたいとか、奨励されたいとかいうふうに望んだならば、これはもう恥であると同時に、人間としてさもしい心がけだと思え。

 

6月1日「人生をむずかしく考えない」

人生を、あまりむずかしく考えない方がよい。むずかしく考えるとわからなくなる。真理は足もとにある。高遠な学理の中にあるのではない。

もとより軽率な考え方ではいけないが、なまじ学問をした人は、真理を遠く大海の底、深山幽谷の奥山にあるような思い違いをすることが多い。人間それ自体の生命存在を、思索の中心において考えれば、大きな的はずれをしないですむはずである。

人間の心のあり方が、結局人生を支配する法則の根本である。

 

5月31日「自力で生きているのではない」

どんなあわて者だって自分の力で生きているとは思わないでしょうな。

もし、自分の力で生きているなら、時が来ても死ぬはずはないじゃないですか。いつかでも自分の力で生きておられるはずですし、現在あるがままの自分を保っていかれるはずです。

ところが、自分の力で生きていない証拠には、今から後、十年経ってごらんなさい。現在の自分と同じではないですから。

自力でなく他力で生かされているからこそ、時の流れとともに変わるんです。

5月30日「善いことは模倣せよ」

古の聖賢の格言にも、「良師は以ってすべからく宝と為すべし。良友は以ってすべからく鑑と為すべし」とある。

自己を完全に啓発し、自己を真実に向上させて人の世のために真に役立つという真人となろうためには、ひたすらこうした心がけで何でも善いことを模倣することに専念すべきである。そして悪いことは、特に人の迷惑になるようなことは嘘でもまねをしないことである。

5月29日「進歩の階段」

人生は心の操縦を完全にすることが重要である。人間の心は常に発達しているので、瞬間といえどもこれを等閑に附してはならない。人類の心が今日の状態になるまでには、実に永い時の経過と、数多い進歩の階段を踏んできている。そして今後も進歩の階段を昇っていく。

従って心を完全に操縦するには、潜在意識を正しく理解し、その運用的確にして、心がその進歩の階段を適確に踏み締めて昇れるように側面から誘導することが肝要である。

5月28日「気を込めてやる」

明瞭な意識を持続するための最も適当な訓練法は「何事を行う際にも決して気なしに行わぬこと」である。毎日、時間と仕事を特定して「気を込めて物事を行う練習」をする。

たとえば手紙を書く間とか、または読書をする間だけは絶対的に真剣になって行う。あまり興味をもたぬこと、気乗りのせぬことや、気の急ぐようなこと、大して値打ちのないこと、または、慣れ切って熟練していることなどを行う際は、特に気を打ち込んで行うように心がけるのである。

3月2日「完全を願う意欲観念」

人間には、不完全を嫌い、完全を喜ぶという気持ちがあるでしょう。壊れた時計と壊れていない時計と両方見せられて、好きな方を持ていきなって言われたら、誰だって壊れていない時計を貰っていくはずです。

だから自己の健康や運命も、誰でもが完全であることを願うんです。たまには思ってみたいとか、にっちもさっちもいかない運命の中に陥って苦しんでみたいと思う人はいないでしょうが、何事も完全にあらしめたいという意欲観念は、生まれながらに自分の生命の中にある本能なんです。

5月27日「衣服に関する注意」

健康生活の現実化を求めるものは、できるだけ自然に背反しないような心がけを、衣服に対する基本観念として、衣服を着けることである。そのためには、

一、常に、決して過度に厚着をしないようにすること。

二、あまりに皮膚に密着するもの、また、圧迫の強い衣服をできるだけ避けること。

という二つの事項を注意深く実行することである。

5月26日「言葉は人生を左右する」

万物の根元である気が、人間の心の中に入って観念となり、その観念が思考となる。そしてその思考が、一方において行動となり、他方において言葉となって現れる。これは人間のみが造物主から与えられた恩恵であり、他の動物にはない。

言葉というものは、思考が終結し、それを表現するためのものである。言葉には人生を善くも悪くもする力がある。だから言葉は、人生を左右する力のある哲学であり、科学であるという事が言える。

5月25日「人間は一個の小宇宙」

人間の生命の中には、この宇宙の中に依存するありとあらゆる一切のものが、ことごとく存在しているという不思議な事実がある。この宇宙は、いわゆる物質によって形成されている。そしてその物質は大別して動物、植物、鉱物の三種に別れる。しかるにわれわれ人間の生命の中には、以上の一切の物質が、各種の形態の下にことごとく存在しているのである。

哲学者が人間を一個の小宇宙なりと形容しているのもその理由はここにある。

5月24日「報償の法則」

本来の使命という大切なことを度外視して人生生活を営んだのでは、どんなに努力をしても、人間に与えられた幸福も恵みも得られるはずがない。

人生の事柄は、すべて「報償の法則」というもので支配されている。瓜の種子を蒔いて茄子はならないのと同様に、この法則はあくまでも公平で厳粛である。いわゆる善因善果、悪因悪果は人為的にどうしようもすることもできないのである。

5月23日「深呼吸のすすめ」

クンバハカ(神経反射の調節法)を応用しながら、日に何千回でもいいから深呼吸をすることを稽古しなさい。息は吸う時よりも、出すときが肝要なのよ。最初、肺臓の悪ガスを出すことが大事なんです。呼吸なんだから、「呼」のほうから先におし。

こういう呼吸法をやっていると、いざというときにクンバハカがパッとできあがるばかりでなく、落ち着いた気分が求めずして自分の気持ちの中にできてきて、今までのように感情や感覚にやたら引きずり回されなくなるんです。

5月22日「だれでもできる積極精神」

積極精神態度をつくるということは、だれにでもできることです。正当な方法を系統的に秩序正しく実行しさえすれば、必ずだれにでもできる事実なのであります。

万物の霊長として生まれた人間は、後天的修練を正当に施せば、何人といえども、積極精神という価値高いものを自分につくりあげられるようにできている。ですから、自分はだめだ、俺は生まれつき心が弱いんだとか、神経が過敏だからというふうに価値のない、安っぽい見切りを自分につけないことであります。

5月21日「孤立」と「独立」は異なる。

そもそも「孤立」ということと、「独立」ということは、まったくその意味を異にしている。もちろん、独立ということは、正しい自覚をもつ人間として最も尊い人生状態である。がしかし、孤立は天理に背反する無価値のものである。

である以上、自分のことのみ考えて、他の人々のことを考慮の中に入れない人生観や生存生活の方法というものは、自分では気づかずとも、それはとりもなおさせず孤立とほとんど五十歩百歩、いささかの異なりもない状況なのである。

5月20日「調和のなるところに完成あり」

「そも調和ということは、厳粛なる宇宙本来の面目であり、かつまた人生の実相であると同時に、生きとし生ける生物の生命の本然の姿なのである。いいかえると調和ということは、万物存在の絶対に侵すべからざる尊厳なる自然性なのである」ということを理解されていると信ずる。

「またこれは論より証拠で、調和のあるところのみにいわゆる真の完成というものがあって、反対に調和のないところにには絶対に完成というものはあり得ない」のはいっさいの事物事象に明瞭に現れてくる。

5月19日「心の態度」

多くいうまでもなく、人事世事すべての人生のできごとの一切に応接するものは「心」である。

したがって、万一にも、そのときの「心」の態度が消極的であると、そのできごとを完全に処理解決することができなくなるというのは、意思の力なるものが、十分に実在意識領にかん発されてこないからである。

5月18日「俗物」

感情の統制が完全にできず、わがまま気ままな、自分勝手な、独りよがりの気持ち、否、感情本位で人生に活きている人は、どんなに事業的に成功したように見えても、また客観的に偉そうに見えても、真理の目から見ると、ただ一個のエゴイステイックな卑しい下等な俗物としか考えられない。

5月17日「健康的な住宅」

人間の生活に、住居がその緊要の条件の一つであることは、議論の必要のないことで、従ってこれに関する理解もまた重要である。

でき得る限り風通しのよいこと。すなわち言い換えれば、空気流通のよいこと。日当たりのよいこと。すなわち、言い換えれば明るい室をもつ家であること。この二つの条件が具備されている家なら、たとえバラックでも、完全な健康的住宅であるといえるのである。

5月16日「心身統一法は修行にあらず」

心身統一法の目的は、「人間の生命に賦与された本然の力の完全発揮」であるが、この方法を修行として行ったのでは第二義的となる。

では、第一義的とは何かというと、それは講習や書籍、あるいは行修を通して教える各種の方法を、日常行事として行うことである。すばわち、特別な機会に、特別な気持ちで行うなどと錯覚してはいけない。

だから、一人一人の日常生活のそれ自体が、その人にとっての心身統一法そのものでなければならない。

5月15日「思いやり」の実行

思いやりの気持ちがいかに貴いかは誰でも知っているが、実行できているかというと、意外とそうではない。それは、その人の人生観が自己中心主義にかたよっているためである。これを解決するには、第一にこの世の万物万象が、互いに助け合って調和をはかりながら存在しているという事実を知ることである。

人生に起こるすべてにことをスムーズに解決する秘訣は、「もし仮に、自分が相手の立場にいたらどうであとうか?」と、そのつど考えることである。

5月14日「絶対積極と相対積極」

精神の積極状態というのは、厳密にいうと「絶対積極」と「相対積極」の二つに分類される。

絶対積極とは、「何事に対しても虚心平気の状態」をいい、相対積極とは「何事に対しても、できうる限り明朗、活淡、溌刺、ふう爽として対応すること」をいう。

いずれにしても、人生建設の先決要諦である健全精神の完成は、その基本条件である精神状態を絶対積極の状態に到達させることである。

5月13日「原因のないものはない」

およそこの世のありとあらゆる事物の中に、原因のないものは絶対に、一つとしてありえないのである。

このことが絶対真理であるということは、自分の言動や仕事などの結果に、何か意に満たぬものがあるとき、それを子細に検討すると、必ずや「力」か「勇気」か、もしくは「信念」が欠如していたがためだという、原因的事実がある。

5月12日「不断の心がけ」

ちょっとでも不満や不平を心に感じるようなときは、よりいっそう、それを感謝に振り替えることに努力するように習慣づける。

この心がけをいかなる場合にも不断のものとするべきである、とあえて痛烈に勧奨する。

5月11日「安眠を得ようとすれば」

その日その時の活力の消耗の程度に応じて、言い換えれば、生命の要求する時間を睡眠するというのが最も自然法則に順応している。

本当に眠くなってから寝るようにすること。ムリに眠ろうとせず、ゆうゆうたる気持ちで眠くなるまで待とうとのんきな気持ちをもつことが何より必要である。

要は、昼間できるだけこまめに肉体筋肉を働かすことである。何もしないで安眠を得ようと望むのは、あまりにも虫のよい考え方と笑うべきである。

5月10日「信念はかん発するもの」

我々がこうやって活きているのは、多少なりとも信念があるからである。どうすれば信念が確立され、強くなるのか。それはまず、「信念をかん発すること」である。

信念はかん発しなければ、強くならないのである。信念は出たくてうずうずしているのに、消極的な観念がそれにフタをして、心の底の底の底に、いつのまにか下積みされてしまったのである。信念がかん発されてくると、事あるときも常に事なきのようになれるのである。

5月9日「笑いは人間の特権」

平素人生に活きる時に、つとめて明るく朗らかに活き活きと勇ましく活きる努力を実行すべきである。

と同時に、この意味において私は、大いに「笑い」ということを礼賛する。笑えば心持ちは、何となくのびのびと朗らかになる。この簡単な事実を案外多くの人は見逃がしている。人間は万物の霊長として重い大きな負担を負っている。笑いはその疲れた心や体を、ほどよく調和させるように人間に与えられているものである。

5月8日「第一義的な活きかた」

なんだろう第一義的な活きかたというのは・・・・・・。

どんな場合にも、例えば、身に病あろうが、なかろうが、運命が良かろうが、悪かろうが、どうであろうが、こうあろうが、その他の人生事情のいかんに拘わらず、いつも一切に対して、その心の力で、苦を楽しむの境涯に活きる活き方をするにあり。これが第一義的の活き方なのである。

そのためには、まず第一に、人生に対する考え方を、積極的、すなわち尊く、強く、正しく、清くすることである。

 

5月7日「自己を作るものは自己なり」

他力依存の態度ではとうてい自己自身からの実現性が、なんとしても発揮されえない。

「自己を作るものは自己なり」という真理は、まことに侵すべくもない絶対的なものである。

5月6日「はっきりした気持ちでやる」

どうすれば感覚器官を正確に使用する習性を現実につけられるか。まず第一に、諸事万事に応接するときに、「はっきりした気持ちでやる」ということ。何事に対しても、まずそのものの中から何かの興味を見いだすか、またはつくりだすかして、どんな興味のないものに対しても、必ず意識を明瞭にして応接する習慣をつくるようにする。何事をおこなう際にもけっして「何気なしにおこなわぬ」ことを心がける。

つまり、「有意注意力」を集中するという意味なんだ。

5月5日「暗かったら窓を開けろ」

あなた方ねえ、苦労したり、悩んだり、人を憎んだり、怖れたり、悲しんでるとき、気持ちいいですか。あんな嫌な気持ちなかろう。その嫌な気持ちをなぜ心にさせるんだ。喜ばしてやれ、しじゅう楽しく考えさせてやれ。それが心に対するあなた方の義務だぜ。

暗い方面から、嫌な方面から人生を考えりゃあ、世の中に明るさ、何にもないわ。暗かったら窓を開けろ。光がさしてくる。

5月4日「つぶやきの自己暗示法」

低級な欲望や劣等感情情念がヒョイと心の中に発動してきたなと思ったらね。ソリロキズムというのをやってもらいたい。日本語に訳すと「つぶやきの自己暗示法」といいましょうか。何も口にブツブツ出さなくていいんですよ。観念でひとりごとを言えばいいんです。「こんなことに腹が立つか。こんなこと悲しくない。自分はそれ以上すぐれた心の持ち主だ」というふうに、自分自身が一人でつぶやくのを、ソリロキズムというんです。これがまたばかに効き目があるんですよ。

5月3日「運動したい時に運動する」

自然法則の原理から、真に運動したいと思った時に運動すべきである。

毎日一定の時間に一定の量の運動をすることはむしろ不合理なことで、運動をしたくない時に運動することはかえって害があることなのである。

もっとも理想的な運動法は「健康である限りどんな身分であろうとも自分のことは一切できるだけ自分でする」ことで、日常肉体をできるだけ小マメに動かすことである。

変化と波瀾のある生活を行っている人間には、毎日規則的な運動を必要とするような不自然さは要求されていない。

5月2日「社会の改善をするために」

常に善良な言葉、人を勇気づける言葉、人に喜びを与える言葉のみを使っている人が増えれば増えるほど、この世の中っていうものは、グングン光を増してくるんだよ。

そういう人が増えない限りは、どんなに社会改善を行なおうと、国家改革を行ったってだめだよ。社会だ、国家だって言ったって、結局、人間のかたまりだもの。人間自体がだらけた、腑ぬけた、始末におえない、弱音ばかり吐いていたら、社会は改善できないし、立派な国家ににはできないんです。

5月1日「明日より今を」

何事につけ、今日以降の人生に対する計画、つまり明日どうしよう、今後どうしようということを考えることは非常に必要ですけれども、もっともっと大切なことがあるんだよ。

されは、たった今を正しく生きることにはどうすりゃいいだろうということ。これをたいていの人は忘れちゃいないかい? 明日はどこへ行こう、明後日は何しようと考えて、現在ただ今を、ちっとも尊く生きてない人がありゃしないか?

4月30日「間違いの三重奏」

『他人のことならともかく、我がことになると、これが悲しまずにいられるか、怒らずにいられるか』m¥、なんてやっている人がいますかが、これ、一番やってはいけない手前味噌なんですよ。

怒ることがあるから怒るんだ、悲しむことがあるから悲しむんだ、これ実を言うと当たり前でないことなんだけども、当たり前でないことを当たり前だという間違いは、間違いを間違いと知らずして間違っている間違いの三重奏なんです。

 

4月29日「世のため人のため」

富や地位をつくって、自分の人生欲望だけを十二分満たすことのみを想像するということは、断然排除すべき向下的想像だ。よろしく健康想像と同様に、金をつくって、人の世のためにつくす仕事をしようと、こうなりゃ本物だ。

また、そうしなかったら、その人にどんなに金ができても、その金はその人に本当に安定した幸福を感じさせないんだよ。モデルが完全であってこそ、作品も完全なのだ。想像はつまるところ、人生形成のモデルなんだ。

4月28日「ひたすらに」

ひたすらに 人の世のため活きなんと

        思う命に 光あるかな

まず何をおいても、人生に対する尊厳な義務から実行しよう。幸福という権利は、自己統制を完全にするという正しい義務の実行者のみに恵まれる。否、こうして初めて正当な民主主義の確立ができ、世界平和に強調し得る真日本を建設することができる人となり得ると確信する。否、時代はまさに、そうした正念の自覚をもつ人を切烈に要求している。

 

4月27日「運命について」

運命には二種類ある。天命と宿命である。天命は絶対で、宿命は相対的である。どうにも仕様のない運命を天命といい、人間の力で打ち開くことのできるものを宿命という。女が女に生まれ、男が男に生まれるのは天命である。現代に生まれたのも天命であり、どうすることもできない。

ところが今の人は、打ち開くことのできる宿命にぶつかったときでも、それを天命という。自分の努力が足らないことは棚に上げ、どうにも仕様がないという。

4月26日「心の要素と約束」

心の要素とこれに付随した約束というものを正当に理解することができれば、その意識領域の中に発動する各種の心理現象に対しいちいち正確な判断がつくため、どんな葛藤がその考察の上に生じても決して錯誤に陥ることなく、整然とこれを収支解決することができ、同時に心というものも、肉体と同様に、真我の生命の付属用具であるという消息を如実に合点し、完全にこれを自己生命のために、また自己人生のために行使することができるようになる。

4月25日「経営トップたる人間」

どんなに事業方針が確立していようと、また経営方針が完備していようと、一番のトップに立っている人々のパーソナリティーに多少なりとも欠陥があったらどうなるだろうか。健康、それから運命に対する扱いがしっかりできる人間でなかったら、会長だとか社長だとかいったところで、それぞれの名前だけにすぎない。

それがために、「どこまでも人間をつくれ。それから後が経営であり、あるいはまた事業である」ということを私、しょっちゅう言っているんです。

4月24日「内省検討と暗示分析」

病難に際し、または運命難に直面した場合には、平素充分心身統一法の理解に透徹していると思っても、そういう場合、修養未完成の人はその事柄に引きずられて知らず知らず心の平安を失い、その結果、独立自尊という尊厳な立場から、他力依存という価値階級の極めて低劣な方面へと自己の心的態度を転移して、無益な焦燥と混迷とをあえて為すという愚行を行う怖れがないわけではないから、そういう場合に、さらにさらに入念周到に内容検討と暗示分析とを実行して、心境の浄化清純に努力されるよう心より付言する。

4月23日「日々新たに」

くれぐれも注意すべきは、これまた平素折あるごとに説述している通り、「貴さに慣れて小成に安んずるなかれ」である。

要は、常に日々新たにして日々新たなるべし、という心もちを心にもつことである。

4月22日「不平不満の悪影響」

知る識らざるとを問うこともなく、不平不満を口にするという心もちをその心にもたせると、人間それ自身を不幸にする場合が多く招来されて、決してその心的態度から幸福というものは発生しないのである。

というのは、直接的には判断力、断行力、さらに精神力というものがどんどん萎縮減退し、間接的には体力や胆力、はては精力にまで、そのよくない影響が波及されて、結論的にいうと、生命力の一切が劣弱になってしまうのある。

 

4月21日「人生は極楽か地獄か」

人生は心であり、観念であります。これこそが、あなた方の人生を極楽にもし、また地獄にもすることができうる、唯一のものなんです。

いいですか、よく考えてください。「極楽だ、地獄だ」と感じているのは、あなた方の心でしょう。あなた方の心が地獄だと感じれば地獄になってしまうんですよ。あなた方の人生が。ですから何かがあれば、「ああ、たのしいな」「ああ、うれしいな」って思うようにすればいいんですよ。

4月20日「悟れば幸きたる」

「悟れば、一瞬にして幸きたる」

この真理が心の中に輝くと、健康も運命も、ともに求めずとも完全になるようにできているのが人間なのである。それは、心と神経との関係を考えればずぐ実証される。そして、この宇宙の生命エネルギーを自分の生命に受け入れるのも、またエネルギーを全身に分配するのも神経系統が直接、または間接に心の支配を受けているためであるとわかれば、どんな人間でも、この厳粛な事実のうえから、自分の心の立派な論定ができているにちがいない。

4月19日「集中」と「傾注」

心の前に現れた事物現象なり、または仕事などに、他意なく一心不乱に心が注がれる状態を精神統一というのではない。それは精神統一の枢要条件である「集中」ではなく、「傾注」であり、「執着」であり、極言すれば「凝滞」であり「放心」なのである。

真正の心身統一とは、事物事象を心の中に集約集中せしめることである。心を心の対応するものに捉わしめず、心にそれを完全に捕捉することである。

4月18日「苦行より自覚」

真理というものを知らなかった時代の私は、何か苦行をするとか、あるいは、特別苦心の研究というようなことをしないと、完全に理解することができないように思っていた。

しかし、そうじゃない。現にインドに行って、耐えられない難行、苦行はあまりしなかった。しないでも、真理をつかめた。苦しい修行をしてからででないと自分は強くなれないと考えていると、強く生きられないのが自分の無自覚からきているということには気が付きません。

4月17日「命令暗示法」

その要領は、鏡に映る自己の顔面に対し、自己の欲する積極精神状態を、命令的言語を用いて、たとえば「信念が強くなる!」というような言語を用いて、真剣な気分で発声するのである。

発声は特に大声である必要はなく、自分の耳に聞こえる程度でよい。

必要なのは、一回一事項に限ることと、命令したことが確実に自己の精神に具体化するまで、同一命令をそのたび

ごとに続行することである。

4月16日「食物について」

厳格に言いえば、食物はでき得る限り「自然のまま」から遠く離れぬものを摂取するのが最も合理的なのである。だからあえて粗食をのみする必要はないが、要は普通程度で植物性食物を本意とするべきである。

4月15日「無駄な神経消耗」

神経系統というものは、人間のいのちを活かす生活機能の中で一番大切なもの、いいかえれば神経系統の生活機能のおかげで、われわれの生命はこうして活きながらえているのであるが、やたらと気どったり、ぶったりしている人は、もちろん自分では結果にそういう良くない事実が生じてくることに気づかないで、否、気づかないというよりも無知であるがために、考えることなしにといってよいほど無頓着で、やたらと価値のない無駄な精神消耗をことさらに行っているのである。

4月14日「正心誠意」

真の人生幸福というものは、自己を本位とする相対的意識の中から生ずるものではなく、つねに、正心誠意(本心良心)という調和享容の絶対意識の中からのみ生じる。

もっとわかりやすくいうならば、お互い人間の心が、、自分以外の他の人々の幸福を望む気持ちで、一つに結ばれない限り、広い意味における、人々の共同幸福は望んでも事実化されないのである。

4月13日「理智に依存しない人生」

理性や感情というものは、その人の心身に享受した教養や、または経験から培養された理智を根源とするという惚諸に付すべきからざる大きい事実関係がある。

しかし理智なるものは、つねに間断なき発育的情勢をもって推移しているという相対的なものである。しかるに、かくのごとく、多分に変移性をもつものに人生生活依存すると、しばしばそこに図らざる蹉跌や、思いもよらぬミステークというものが生ずるのは必然で、せんじつめれば、人生の悲観も、地獄も、不平も不満も、そうした無自覚を基点として発生するものである。

4月12日「相手方の気持ちになる」

相手方の気持ちになるということは、分りやすくいえば「自分が先方の立場にいたらどうであろうか」ということを考えることなのである。

実際! 自分以外の人の心持ちを理解しあうことができるという特殊の精神能力を、人間だけに賦与されているのはなにゆうぞ、と考えたら、何事に対しても、まず相手方の気持ちになって考えてみることが、すべてのことの解決をスムーズにする秘訣だと理解される。

4月11日「病になってからでは遅い」

生活様式が人間の生命のもともとの姿を無視した生活をしていたら、どんな名医や薬を持ってきても完全な健康を得るの難しい。

病気になってから、健康のことを、足もとから鳥の立つようにあわてて考える人が多いが、病になってから初めて健康の価値を考えるようでは全然問題にならなぬ手遅れと言わなければならない。ふだんから、生命のもともとの姿に応じた生活をしてこそ、理想的健康が得られる。

4月10日「自分自身という存在」

自分の心や肉体の存在を意識的に自覚したのは、たぶん、生後三年か四年たってからであろうと推定する。そこで自分自身が心や肉体の存在を意識的に自覚しなかった当時、自分というものが存在していなかったかどうか? 言い換えれば、自分の生命は存在していなかったどうかである。

私の生命は、自分自身、心や肉体の存在を意識的にじかくするかどうかに関係なく、既にその以前から立派に存在していたのである。

4月9日「言葉の力」

真理に従って人生に活きるには「その一言一語の言葉すべてが、人生に積極的に影響する暗示となる」という大事な宇宙真理を絶対に忘れず、さらに努めて積極的な言葉を使う習慣を作ることである。

4月8日「人生と心の法則」

われわれの生命の中にある肉体はもちろん、精神生命も、一切の広い意味における人生7の事柄は、心の運用如何によって、決定することができる、という真理を、私は悟り得たのである。

「人間の心で行う思考は、人生の一切を創る」

この法則を厳として自覚して、常に、この法則を乱さないように活きるならば、人生は、期せずして、大きな調和のもとに満たされる。そして、無限の強さと、生命の無限の自由というものは、自然的に出てくる。

4月7日「磨き上げた鏡」

どんな場合、どんな事物に対応するにも、常に、意識を明瞭にしてこれに接するようにすること。もっとわかりやすくいえば、いつも、はっきりした気持ちで、何事にも接すること、それが先決問題なのである。

形容すれば、八面玲瓏磨き上げた鏡の如くあるべきである。写真のレンズが曇っておれば、対象事物を明瞭にフィルムに印象しない、これと同様で心が明瞭な意識で保持されていないと、心の前に現れた一切を、完全に集中捕捉することはできない。

4月6日「外界印象の取捨選別」

精神生命に外界の印象を受け入れるときには、その印象を受け入れていいものか悪いものかを吟味しなければいけない。

しかい、このことの半分の半分も注意しないで受け入れている人が多かない? それが結局あなた方を、気の弱い神経過敏にしちゃった。精神過敏な人というのは、五か十ぐらいのわずかな刺激、ショックも、それを心に知覚せしめるときには百、二百に誇張して感じさせてしまう。こうゆう人は精神生命に外界の印象を受け入れるとき、これからは特別入念に吟味して、取捨分別を完全にしなきゃいけない。

4月5日「偶然ではない」

この世、このとき、我というものが生まれたのは、何万年も前から、我というものが、この世、このときに生まれた出るような、元があったから出てきたのだ。

ただ、自分が、自分というものの存在を意識したのが、極めて短い時間であったというだけの条件で、この世に生まれたものは偶然の動機だと考えられたら、それはあまりにも、自己を観る観方が、大きな誤解で行われているといわなければならない。

4月4日「積極的態度」

何でもないときには矢でも鉄砲でももってこいという気になるけれども、健康上に故障があったり、運命上に少しでもままならないことがあると、そういう場合こそ、よりいっそう心の態度が積極的であらなきゃならないのに、すぐ青葉に塩みたいになってしまう。

こういうのを積極的態度というんじゃないんですよ。どんな場合があっても積極的というのは、心の尊さと強さと正しさと清らかさが失われていない状態をいうんです。

4月3日「ニッコリ笑う」

朝起きると、まず、第一に、ニッコリと笑う。もう、くせがついているから、眼が覚めるニッコリと笑う。わざわざニッコリと笑わなくても、ひとりでに笑う。そして、

「今日一日、この笑顔を壊すまいぞ!」と自分自身に約束する。

ふたたびは 来らんものを 今日の日は

   ただほがらかに 活きてぞ「たのし

4月2日「真の健康と食物」

地上の動物は、その食物の種類でおおよそ次の三種に分類される。

肉食動物・草食動物・果食動物である。

元来動物は生きていくために新陳代謝を行うが、その作用で大なり小なりの毒素はたえず発生し、血液やその他全身の組織の中に存在している。然るに、動物を食すれば、その毒素は無条件に食した人の体の中に入ることになる。菜食は肉食よよりもはるかに優れているが、あらゆる点からみて理想的な食物は果物である。現実的には植物性を七割以上、動物性食物を三割以下としつつ、極力果物を多く摂るようにすべきであるy。

4月1日「聖賢というものは」

すぐれし人、言い換えると、すべての真理を知っている聖賢というものは、心がただ単に積極的であるばかりでなく、本当の心の強さの中に「気高さ」を持っている人のことなんだ。

心の気高い強さというのは、結局要するに、卑屈にやせ我慢で強さをつくろうとするのではなくて、淡々として、少しも気張らずに強くなり得ていることをいう。

だから、すぐれし人には絶対に不運というものはこない。

3月31日「つまらない考え方」

心の弱い卑怯な人と、「なにか自分には運命が向いていない」だとか、「世間がまだ本当に認めてくれない」だとか、もっとあきれたやつになると、「整備が整っていない」だとか「誰々が手伝ってくれない」とか、何かうまくいかない時に、自分以外のもののせいにする人がいますが、とんでもない了見違いです。

やれ運命がつまらないの、人生がつまらないのって人は、その考え方がつまらないんです。いいですか、幸福も健康も成功も、ほかにあるんじゃないんですぜ。あなた方自身のなかにあるんだぜ。

3月30日「自己に打ち克つ心」

正心誠意を以て、為されざる事柄というものは、たとえそれがいかに立派そうに見えても、断然人の世のためになるという尊い結果を作為しない。

況や、人々の共同幸福のために努力しようとするのには、崇高なる克己心というもの・・・・・・・すなわち自己に打ち克つ心が、これまた何よりも必要である。

3月29日「人間の死というもの」

たった一つの、宇宙の根本が生み出したものが、森羅万象と称するものは、宇宙根本のエネルギーの分派によって創られている。形が、つまり目の前にあるというのは、宇宙根本の力が、まだ籠っているからであり、その力が抜けてしまえば、形を現象界から消して、根本要素に還元しなければならない。

人間の死というのも、そういうことなのである。

3月28日「石もみがけば玉となる」

知ることは聡明を増すことである。

しかし、正しく考えることはいっそう心を研くことになる。

さらに行ずることによって、自らを正しく救うことになる。

玉はみがかざれば光なし。

と同時に、石もみがけば玉となることあり。

また玉にならないもあでも、みがかぬ玉よりははるかに良くなることは必定である。

3月27日「思考の客観的批判」

とにかく、お互いに、真理に則って正しい向上への人生を建設しようとする者は、自己の心の行う思考状態の客観的批判を、刹那刹那実行するくらいの余裕を心にもたして活きるのが、ほんとうに生活を味わい得る貴重な人生真理だと悟らなければならない。

そしてその余裕を現実に心に作ることを、常住の心がけとすべきである。

3月26日「低級欲求心の排除」

欲求心には、低級なものと高級なものとの二つの種別がある。そして人生に悪い影響を与える低級欲求心は排除すべきだが、本能心が整理されていないと非常に困難を伴う。

低級欲求心は発動させまいと思っても、なお執拗に発動して来る。そこで、無理矢理にその欲求発動を抑制禁止しないで、より一段高い高級欲求心を応用することを提唱する。すなわち向上欲とか、改造欲とか、または趣味欲のような高級欲求心を応用するのである。

3月25日「心の使い方の上手な人」

トーマス・カーライルは、心の使い方の上手な人はあたかも百獣の王ライオンの如しという。「ライオンは事なきときは黙々として悠容自若たるも、事あれば直ちに躍起し、変に応じ、機に処し、あるいは疾風、あるいは悠々、遅速緩急極めて鮮やかに出処進退する。そして事止めばまた静かなること泰山の如し」とある。

このように人生を活きてこそ、人生を真に荘厳に堂々と暮らせる人となり得るは必定で、また、われわれの志す彼岸点もこの点にある。

3月24日「心や肉体が自己でない」

心や肉体が、人間=自己に対してどんな関係にあるか、について説明しよう。心や肉体は人間そのもののよう見えるが、実はそうではなく、人間がこの世に活きるのに必要な、いろいろな方便を行うための道具という関係なのである。

哲学的にいえば、心や肉体は人間の個体生命の生存と生活とを確保存続させるに必要な不可分的生命付属物なのである。故に、心や肉体は、人=自己ではなく、ましてそれが人=自己の本体ではなないのである。

3月23日「感謝へのふりかえ」

病があろうが、運命が悪かろうが、それを感謝と喜びにふりかえることです。

そもそも病とか不運とかというものの原因を考えてください。何にも自分に落ち度がなくして、病や不運がくるはず

ないのであります。つまり、原因あっての結果。

ですから、おまえの生き方に誤りがあるぞ、と自覚を促すために病なり不運なりが与えられたとしたら、これは大きな恵みですわ。それを考えたら、恨みどころか感謝にふりかえ、喜びで誤りを是正する方へと自分の心を積極的に振り向けることが一番必要でしょう。

3月22日「無意注意と有意注意」

注意というものには、➀無意注意と②有意注意という二つの区別がある。

第一の無意注意とは、特に意識を用いて注意を振り向けようとしないでも、自然的に注意の注がれる心的状態のことなのである。

第二の有意注意というのはこれと全く反対なので、すなわち特に意識を用いて自己の特定した事物に向かって注意を振り向けるという、言い換えると能動的の注意状態をいうのである。われわれの訓練を現実に必要とするのは第二の有意注意なのである。

3月21日「大定心」

「大定心」というのは、どんなとき、どんなことにもいささかも動揺せぬ心、いいかえると、いかなる場合にも、おじず、恐れず、急がず、焦らず、いつも淡々として極めて落ち着いている心である。

これをもっと適切な状態でいえば「何事もないときの心と同様の心の状態」である。あの古い句で有名な「湯上りの気持ちを欲しや常日頃」というのが、この心持ちを最も真実に形容表現している。

要するに、何事もないときの平静の心こそ、大定の心なりということである。

3月20日「敵をも味方にする」

天風道で言う、いわゆる絶対的な積極心が、あらゆる敵をも、いわば即座に味方にしえたという、これが心の力の実際的n証拠であります。

心の力が勝れば、敵をも味方にすることができるんです。ましてやいわんや戦もないこの現代。私はいつもいうでしょう、憎い人があろうはずがない。あなた方がなにか憎たらしいことを考えているだけだ、と。

凡人は敵対し、優れし人は和合する。ケンカすることより、仲良くすることをまず考えなきゃだめですよ。

3月19日「進化と向上」

人生というものは、健康難や運命難と闘う世界ではない。健康難や運命難を超越せる進化と向上という宇宙本来の目的に順応することを、その全生命の使命とすべき貴重な世界なのである。

3月18日「臨機応変」

世の中を見てみるに、その日々の生活を行う際、「力」の使い方を考えないため、「力」を働かさずに、「力」のみ入れるという「力」の無駄遣いをしている傾向がある。

剣の極意は「変機に処する以外には、いたづらに力を入れぬこと」である。これが臨機応変の要訣である。

人生生活を完成するいのちの力の使い方もこれ以外にない。

3月17日「自分はかわらない」

男は少年時代、娘さんたちは少女時代、そして赤ん坊時代。その時分に、自分というものを考えた自己意識と、今日、ただいま自分を考えている自己意識と比較して、じいっ考えてみな。

すぐにわかることは、知識や肉体の発達が、まことに別人の如くにも感じられはするけれども、一歩深く突き進んで自分というものを本質的に考えると、自分というものは、どこででも変わっていません。変わったのは、あなた方の心や体だけじゃないか。

3月16日「睡眠は精力復活の恵み」

特に就寝前には、心痛、憤怒煩悶、悲観というような、かりそめにも心を暗くするが如き消極的の思考は、断然心に抱かしめぬよう、努めて習慣つけなければならない。

要するに睡眠という自然の与えてくれた精力復活の恵まれの時に、本当に親しむのには、落ち着いた楽々とのんびりとした気分が最も肝要なのである。

3月15日「愛情とは尊敬しあうこと」

そもそも正しい愛情とは、お互いが貴い生命をもってこの世に存在しているという厳粛な事実を認め、心底から尊敬し合うことをいう。この敬虔な気持ちさえあれば、愛情に利己主義や利害関係が入り込む余地など絶対にありはしない。人の生命活動の消息を静かに凝視し、生命の神秘をしかと感じたなら、尊敬し合う気持ちが自然と湧いてくるはずである。

さても本当に明るい世の中を作るには、まずはお互いに正しく愛し合うことである。

3月14日「真理は事情を同情しない

自分の仕事や、または為すことなどが思い通りうまくいかないと、とてもがっかりしたり、へこたれて、憐れなほど生きを消沈するという人があるが、いずれにしても、人生こうした心構えでは、いくら学識があろうと、金持ちであろうと、さらに社会的の地位を持っておろうと、真理というものは、事情に同情しないのであるから、ただいたずらに不幸な状態に自分を心ならずも導入して、結局は、往生のときを早めるだけのこと以外、何も値打ちのあることは人生に招来されない。

3月13日「あるもの無きに」

いかに豊かな収入を持ち、満ち足りた物質を獲ても、心が、その生活の中の情味を味わいえなければ、あるも無きに等しい。世俗をいうところの、金持ち貧乏とか、位倒れとかいう言葉は、こういう事実の形容詞なのである。これは深く考えなくとも、良識のある人ならすぐ理解できるはずである。

3月12日「不平不満ははずかしい」

不平や不満が、口から万が一出たら、それを、従来のごとく、身勝手、身びいきで、共鳴的に考えないで、直ちに、それをはずかしいことだと、強く反省する」という習慣を創ることである。

3月11日「まごころ」をもった行為

人間の行為に、まごころのこもってなされるものとその「否」との場合は、その結果の事実のいかんにかかわりなく、その行為の「尊さ」というものに、すこぶる格段の相違がある。

たとえば、他人の危難を救うというような場合、報償を目当てにして人を救ったのと、断然報償などを念頭に置かずに救ったのは、たとえ敢然として難を冒して救ったというその行為と事実とは同様であろうとも、その行為の尊さに、全然大きいへだたりがある。

3月10日「生活目標」

どんなことを生活目標にすべきかというと、曰く「本心良心の満足を目標とする」ということ、すなわちこれである。言い換えれば「創造の生活」である。

これをわかりやすく要約すれば、常に「人の世のためになることをする」ということを目標とする生活なのである。

その心がけを一層現実化するには、常に誠と愛の心とを以て、万事万物に接することである。そして、この生活目標を以て行われる生活には、満たされない欲望や落胆や、失意的焦燥煩悶というものが絶対にない。

3月9日「人間の生命エネルギー」

神韻縹渺たるこの大宇宙の精気の中には、われわれ人間の生命エネルギーを力づける活力なるものが、隈なく遍満存在している。

3月8日「刹那心機の転換」

常に心がけねばならないことは、刹那心機の転換というのは、言い換えれば、いかなることでも、即座に、心を積極的に切り替えることをいうので、禅の方では、熱殺寒殺という言葉があるのも、要するにこれと同義語なのである。この言葉はすなわち暑さに対しても寒さに対しても、それを思わぬこと、それに心を係ろあわせぬこと、さすれば、寒暑何ものぞ、否、一切の人事世事、皆これと相等し、といういわゆる心機転換の妙を説示したゲゴなのである。

3月7日「程度の高い生活」

心の豊かな生活が一番程度の高い生活だ。物質の豊かなことを、あなた方は程度が高いと思ったら大間違いだよ。どんなに金があったって、どんない贅沢のできる境涯にいたって、しょっちゅう悩みがあって、苦しみがあったら、決して程度の高い生活をしているとは言わないんだよ。

その生活を豊かにしようには、理想を気高くしなきゃだめなんだよねえ。他人の喜びを我が喜びとし、自分の言うことのすべてが人の世のためになることなんだ。

3月6日「われ在る処」

古聖の訓えのも。

・われ在る処に常に光あらしめん

・われ行くところにまた光明を点ぜん

というのがあるが、誠と愛の心を以て、万物に接する時、期せずしてそれは光明となるのが必至である。

これこそ、まことに最も近くして最も遠く、最も新しくして最も古き、すなわち久遠より永劫への、昭として一貫する不易の人生哲学と人生科学の真髄である。

3月5日「自分の”分”を知る」

自分の”分”を知らなきゃ、卑しい希望や汚れた宿望を炎と燃やしていても、ろくな仕事はできないし、不渡りを食う結果がくるのだ。

五貫目の力しかないのに、十貫目のものを持ち上げると、どんな結果になるか、ということを考えることだ。自己認証ということは、自分の分を知ること。これが本当の自己認証である。

3月4日「ああうれし!」

つらいこととか、悲しいこととか、苦しいこととかというのは、自分の心で決める評価なんだから。つらいことがあっても、「ああうれしい!こうして生きていられる」

と思ったら、ニコニコして暮らしていけるんじゃないか、殺されるよりいいじゃないか。

私はそういうふうにして、自分自身を作り上げる序の口とした。

3月3日「経営者」

経営者が、何か新しい仕事をするとか、今まで経験のなかった仕事をするような場合に、私のところへよく相談に来るんです。私の答えはいつも簡単です。「他人に相談しなきゃわからないようなことを、今後のあなたの人生の事業にしようとすることは非常に軽率じゃないか」って言うんだ。

自分のわからないことを私に聞いて、それでわかっても、その後の経営は私がするんじゃないよ。あんたがするんじゃないか。いちいち聞きに来なきゃならないんだったら、あんたが経営するんじゃなくて、私がすることになるんじゃないか。

3月1日「本能の妄動を制御する」

人間の運命というものは、油断すると、常に本能と手を組んで歩こうとしてしているものなんだ。そして、消極的な出来事はたえず、不用意な人々の周囲を徘徊しているんだよ。だから、外部運命の力をほどよく制御したいならば、自己の本能の妄動を正しく制御しなければならない。

2月29日「すべては心の働き」

何よりも一番先に考えなければならないのは、心なんです。なぜかというと、月を見ても、花を見ても、仕事をしても、遊ぶのでも、すべてそれを心が認識してこそその生きがいでしょう。

麻雀した、トランプした、面白いなあと思うのは、みんな心でしょう。おいしいものを食べて、「ああ、おいしかった」と思うのも心で、肉体ではないでしょう。肉体が味わう感覚を、意識の中に思い浮かべるのは心の働き何です。

うれしいもの、楽しいもの、辛いのも、悲しいのも、みんな心なんです。

2月28日「不平不満を口にしない」

どんな場合があっても不平不満を口にしないこと。この不平不満が心の中にあると、どうしてもその言葉が積極的になりません。

不平不満のある人は、しじゅう上ばかり見て、下を見ないでいる。はたはみんな幸福で、自分だけがこの世の中で一番不幸な人間のように考えている。この考え方から出てくる言葉は、必ず未練であり、愚痴であり、もう価値のない世迷いごとだけであります。

2月27日「内省検討」

日常の人生を生きる際に、どんな些細な人事、世事に対しても、いま現在の自分の心は積極的かしらん、消極的かしらんということを、厳格に第三者の心になって、常に検討することが必要なのであります。

そして、少しでも自分の心のなかかに消極的なものを感じたならば、断然それを心のなかから追い出してしまわなければならない。己れの心のなかにあるものは、己れの心を明るく、朗らかにするもののみ、という心がけが必要なんです。

2月26日「普遍愛は絶対真理」

不偏愛は今さらの発見でも創意でもなく、この宇宙創世のときからの絶対真理である。

だからこそ、この世にある宗教のすべてが愛の情けを最大に重視して、その協議のプリンシブルとしているのである。

2月25日「うつくしさと調和」

絶対調和の状態こそ、美というもののほんとうの姿なので、調和の無いところに完全のないのと同様に、調和のないところにほんとうの美はないのである。もっと極言すれば、うつくしいという言葉はしっくりと調和しているという言葉の代名詞で、さらにうつくしいというのは完全だということにもなるのである。

どんな思想でも主義でも、また計画でも設計でも、調和を無視し没却された考慮では、とうていその完成は現実化されないのが当然の真理なのである。

2月24日「私心なき言行」

人と人との世界に活きるお互い人間は、どんな場合にも、お互いの間柄を。天風教義のディクラレーション(宣言)にも宣言してある通り、つねにいかなる場合にも、偏りのない公平で美しい愛情と、真の誠実さを心として尊い思い遣りで助け合うという、いわゆる文字どうり親切本位で共に活きることが最高の理想であらねばならない。

しかも、それを真に現実化するには、要するには私心のない言行が、何をおいても必要とされる。

 

2月23日「事業の成功」

私が事業家にいいたいのは、ここど。

自分の欲望のみでもって、しようとしたことは、そうめったに成功するものではない。事業に成功するのは、自分が欲望から離れて、何かを考えときに、また、その考えたことを実行したときに成功するのだ。同じ事業家でも、欲の固まりでやる者と、「この仕事で、世の中の人のために、本当に役立つものを提供しよう」という気持ちでやるとでは、その結果が全然違うのである。

2月22日「悟りについて」

悟りというのは、自分の心が真理を感じたときの状態をいうのである。したがって、真理を、自分の努力で自分の心で感じるのも、人の悟りを耳から聞いて自分の心に受け入れるのも、受け入れ方に相違があるだけである。受け取ってしまえばその結果は同じである。

真理を受け入れるときの心の態度が、悟りを開く上に密接な関係があるからこそ、安定打座で心をきれいにさせているのである。

 

安定打座の瞑想とは

心を無念無想にして宇宙エネルギーと一体となることを目的としています。

安定打座の瞑想のやりかた

1.長続きする姿勢で坐り、肩の力を抜き、背筋を伸ばし、あごを引きます。

2.目を閉じて、手は双輪の印を組み、下腹(丹田)の前に置きます。

3.ブザー音を聞きながら雑念が浮かぶ状態から心を1点に集めていきます。

4.ブザー音が消えるのに合わせて、無心の境地に入って行きます。

5.音が消えた静寂のなかで心を無の境地へ持っていきます。(雑念が浮かんだら傍観しまた無へ戻るの繰り返し)

2月21日「完全なる人生」

完全なる人生とは、これを要約すれば、生命の現実存在を明確に意識するその瞬間瞬間を、何の不満感も、いささかの不平感をも感じずして、いつもよろこびに活きられている状態の人生をいうのである。

2月20日「まことの我は命そのもの」

「我ありと、感ずる我は、仮の我、まことの我は、見えず、感ぜず」

これは日本の禅家の歌ですが、ヨーガの哲学のほうは、もう少し崩れた言い方しています。

「我ありと思えるものは仮の我、まことの我は命そのもの」

命そのものを働かせているものが自分なんだ。肉体が命そのものを働かせているんじゃない。命そのものの力が肉体を今している。

2月19日「睡眠について」

睡眠を真に催した時に睡眠し、然らざる時には睡眠するべく無駄な努力を為さぬのが最も聡明なのである。

いろいろの方法や手段を講じて無理にも眠ろうと、あれこれと種々の努力をしてもなかなか思うように眠れないものである。それは、何かして眠ろうと焦れば焦るほど、神経が興奮するためで、その上にかかる無駄な努力をすると、勢力の二重疲労を招来する結果に陥るのである。

2月18日「清濁併せ呑む寛容さ」

たとえ自分自身の心が積極心になりえたとしても、自己の心の状態を基準として、他人の心を推し量ることがあっては絶対にいけない。より分かりやすく言うと、自分に対しては常に厳しくあらねばならないが、これを他人に押しつけてはいけないのである。すなわち他人に対しては、清濁併せ呑むという寛容さを持つことである。もしもこれを失うと、他人との勝ち負けにこだわる心が瞬時に現れてきて、積極心の保持を妨害するからである。

2月17日「心は用具である」

心というものの実際の消息は、あくまでも人生を完全に生存生活させていくための用具であるから、絶対にこれに使われてはならない。

だからこそ、何はともあれ常に、人生に対する精神態度を徹底的に積極的にして、いかなる場合にもその精神態度が絶対的積極化という、尊厳なる状態に到達するよう心してその践行に努力すべきである。

1月11日「欲を捨てることはできない」

天風哲学は、断固としてこう断言します。人間の欲望というものは絶対に捨てることはできないのであります。それを7捨てることのできるように説いている、釈迦もキリストもマホメットも多くの人々に、私から言わせましたら、偽りをいっているんだと遠慮なく言いたい。

私は良くなんてすてません。私と同様に真理の中で生きている立派な人間を、この地上にできるだけふやしたいという欲望で一生懸命このお仕事をやっているんだもん。

2月16日「独りぎめ」

一番適切な処置は、何らかの、後ろめたさ=少しの気のとがめをも心が感じないものを言行とするのが、最も優れた要訣なので、少しでも自分の言行を弁護したり理由付けることによって釈然たらんとするのは、蓋し、それはとりもなおさず、理性の判断を直ちに本心的なもの良心的なものだと独自的に断定協調しようとする極めて価値のない、いわゆる「独りぎめ」だというてよい。

2月15日「一生は一生」

実際! 凡下の徒輩として活きても、一生は一生である。

さりながら、再び生まれ能わざる人生と知らば、しかず、真人として活きずんばである。

2月14日「認識力の養成と自己統御」

認識力の養成ということと自己統制ということとは、一体どんな関係があるのだろうか。これを簡単に説明すれば認識力を適当に涵養しないと、心の固有する知覚作用が正確さを失い、その当然の帰結として正しい自覚とか、あるいは悟りとかまたは第六感というような、いわゆる高級意識に属する精神作用が低調になり、ひいては完全な自己統制ということが充分よく行えなくなるという、人生に対する重大な事実があるのです。

2月13日「生活方式の過ち」

現代、中高年者ばかりでなく、若い人々の中にも病弱者が多い。その根本原因は、その生活方式の過ちを是正しないため生命の活力が減少したからである。

現代人が、その生活方式に正しき自覚と反省とをもたないのは、人間の生命本来の実消息を正常に理解しないからである。それは、生命を判断する時、心や肉体を生命の本体と思い込み、それが真我の生命の相対要具であることを没却しているがためである。

2月12日「生命の力」

「人生建設に絶対的に必要とする生命の力」とはどんなものかというと、次の六つに分類することができる。

(1)体力(2)胆力(3)精力(4)能力(5)判断力(6)断行力である。

この六つの力のいずれか一つでも欠乏し、または不完全であると、人生の根本理想は根底から覆されることになるのは必至であるのを見逃すことはできない。

2月11日「一度に二つは思えない」

心ってものは、苦しまないときは喜んでいるんだ。人間の心というのは、一度に二つのことは思えない。苦しがって7いるときは、楽しがっていることが引っ込んじまう。楽しがっているときは、苦しがっていることが引っ込んじまう。両方いっぺんにはむりだろ?

2月10日「何も考えずに寝る」

眠りにつくまでの間に、何も考えないで眠りに入るのがほんとうの理想なんです。それができないのであれば、夜の寝際、できるだけ昼間関係した消極的なことを思い出さないようにすることであります。

夜の寝際の心は「特別無条件同化暗示感受習性」という状態になっていて、ちょいとでも、考えたことはパーッとセイン在意識に刻印されちまうんだ。だから、昼間どんな腹の立つことや悲しいことに関係した場合であろうとも、夜の寝際の心の中は断然それを持ち込んじゃいけないの。

2月9日「考え方が人生を分かつ」

心が、積極か、あるいは消極かで、人生に対する考え方がぜんぜん両極端に相違してきてしまう。心が積極的であれば、人生はどんな場合も明朗、颯爽溌剌、勢いの満ちたものになりますけれども、反対に消極的だと、人生のすべてがずっと勢いをなくしてしまいます。人生を考える自分の心が消極的だと、すべてが哀れ惨憺、光のない、惨めなものに終わりゃしませんか。

人生がたった一回かぎりである以上、たった今からでき得るかぎり完全な状態で井笠なければなりません。

2月8日「親はありがたい」

なかには親のことを悪く言うやつがある。「親も親だけども頭が古かったな」なんて。あたりまえじゃないか、そりゃ。時代が先に生まれてんだもの。親が自分より後から生まれてくりゃ、自分より頭が新しいかもしれないけどものね。そんな批評はすべきでないですよ。

とにかく、おやじの頭、古かったなあ、と思えるような頭に産んでくれた親はありがたいじゃないか。

2月7日「天風式クンバハカ法」

腹が立つこと、心配なこと、恐ろしいこと、何かにつけて感情、感覚の刺激衝動を心に感じたら、すぐ肛門を締めちまう。そして、おなかに力を込めると同時に、肩を落としてしまうんだ。

この三か所がそうした状態にされたときに初めて感情や感覚の刺激衝動が、心には感じても精神系統に影響を与えないという、いわゆる影響を減ずる効果がある。

2月6日「言葉を選択しよう」

人間が人生を生きる場合に使う言葉を、選択しなきゃダメなんですよ。一言、一言に注意してもいいくらい、いくら注意しても、あなた方はヒョイと気づかずに消極的なことを言ってますぜ。

とにかく、習いは性でありますから、人と口をきくときでも、「まいった」「へこたれた」「助けてくれ」「困っちゃった」なんてことは言わないこと。

あくまでも自分の心というものを颯爽、溌剌たる状態にしておくためには、今言ったような消極的な否定的な言葉は断然用いないこと。

2月5日「人間は万物の霊長」

ここが一番大事なことであるが、特に忘れてはならないことは、人間は、万物の中心で、宇宙根本の文派分量を最も多く頂戴しているということである。人間以外の生物が真似する事の出来ないほど、まことに多くの分量をいただいている。

このことが、人間が霊長といわれる所以なのである。

2月4日「生命の強度を保つ」

複雑多端なる人生ににおいて、常に多種多様の病的刺激や健康生活を破綻する障害が、文化が進むほど色々と形を変えて増殖してくるのは必然である。ただ漫然と、我意の赴くままに生活していれば、刺激や障害に抵抗できず、病弱になる。まして人間の生命は、発育期間を過ぎれば年と共に衰退していくのは当然である。しかし、その衰退の速度を幾分でも緩和防止して生きてこそ聡明な人生態度度といえるのだ。「常に肉体生命の強度を積極化すべく訓練的の方法を以て生活すること」である。

2月3日「人生設計について」

多く言うまでもなく、たとえば立派な建築物をつくろうには、まず、完全な設計が必要であります。

と同様に、我が人生をつくろうには、その人生設計の中から余計なものを、きれいに取り除かないとダメなんです。犬小屋みたいな設計を描いて、高層な邸宅なんかできるはずがない。

2月2日「幸福は苦悩から生まれる」

人生の幸福というものを安易な世界に求めてはいけない。言い換えれば無事平穏を幸福の目標としないということである。

本当の幸福は、多くの人が忌み嫌う苦悩というものの中にある。すなわち、その苦悩を楽しみに振り替えるところにあるのである。

苦悩を楽しみに振り替えるというのは、健康や運命の中に存在する苦悩を乗り越えて突き抜ける強さを心にもたせるということである。

2月1日「苦しみを微笑みにかえて」

悲しいことやつらいことがあった時、すぐ悲しんで、つらがってやってちゃいけないんだよ。そういうことがあった時、すぐに心に思わしめねばならないことがあるんだよ。

それは何だというと、すべての消極的な出来事は、我々の心の状態が積極的になると、もう人間に敵対する力がなくなってくるものだということなんだ。

だから、どんな場合にも心を明朗に、一切の苦しみを微笑みにかえていくようにしてごらん。悲しいこと、つらいことの方から逃げていくから。

1月31日「働くということ」

世の中の多くの人々は、働くのは、学校を卒業して就職試験に合格したからとか、あるいは生きていくために、というのが大抵の人の目的ではなからおうかと思います。

しかし、お互い人間がこうして働くのは、人間の生まれついた役目なんです。どんな身分になろうと、健康である限り、働かなくてはならないように出来ています。これ、人間として生まれた者に与えられた大きな恩恵であり、慈悲でであります。

1月30日「消極的言葉の厳禁」

絶対に消極的な言葉を使わないこと。否定的な言葉は口から出さないこと。悲観的な言葉なんか、断然もう自分の言葉の中にはないんだと考えるぐらいな厳格さをもっていなければだめなんです。

1月29日「初一念貫徹による成功」

東洋の豊臣秀吉、西洋のナポレオンはわずかな年月のあいだに立派な兵馬の権を手にして天下に君臨しております。また、フランクリンやワットやエジソンのごとき、偉大な発明や発見をあえてした人々はいずれも心の態度が積極的でありました。

ですから、どんな艱難辛苦に遭遇しても、不撓不屈、その強い心で何事にも脅かされずに、よくこれを乗り越えて、そして初一念を貫徹したものであります。否、初一念を貫徹する強い心があの人たちを成功させたのであります。

1月28日「時は金よりも貴重なり」

事実を慎重に考察すると、極言すればあくびをする時間も、くしゃみをする時間も、取り返せないのである以上、瞬間といえども軽々に徒費すべきでなく、心として有意義に使って活きるべきだと厳かに自戒していただきたい。

そしてここに、時は金よりも貴重なりという真の意義も、はっきりとわかってくると思う。

1月27日「人間に年齢はない」

いいですか、私はね、人間に年齢はないと思っています。年齢を考えるから年齢があるように思うけれども、六十、七十歳になろうと、自分が十七、八歳時代と考えてみて、違っているのは体だけ。そして、もう一つ違っているのは、心の中の知識だけの話で、心そのものはちっとも変っていないはずです。

ですから、四十や五十はもちろん、七十、八十になっても情熱を燃やさなきゃ。明日死を迎えるとしても、今日から幸福になって遅くはないのであります。

1月26日「心の思考が人生を創る」

可能なかぎり、消極的な気持ちで肉体を考えないようにすることが何より大切である。特に病のときは病を忘れる努力をするべきである。一言でいうならば、「人間の健康も、運命も、心一つの置きどころ」

心が消極的方向に動くのと、消極的方向に動くとでは、天地の相違がある。ヨガ哲学ではこれを、「心の思考が人生を創る」という言葉で表現している。

1月25日「苦しむこと」

一体現代の多くの人は、人間というものが苦しむことによって偉大になり、同時に苦しむことによって尊いものを認知し、尊いものを知りえてはじめて真に尊くなり得るのであるということを、知らないようである。

しかもそれが求めることにより願い続けることから作為されることを・・・・。

1月24日「自分とは何か」

人間、この世に生きるのに何が必要かといえば、人生に対する考え方です。これを人生観という。生きていれば絶えず何事かが、陰に陽に自分の人生を脅かす。そのときに人生観があやふやだと、惨憺たる人生を歩むことになる。だから、確固とした、確固として動かざる人生観を持つことが必要なのだ。そのためには、何をおいても、まず第一に「自分が何者か」ということがわからなければならない。

1月23日「求道とは実行である」

いくら素晴らしい教えであっても、これを実行しなければ、それは絵に描いた餅にすぎない。例えば、積極心を身につけるにあたって、感謝の念が重要であることはよく知っているはずだが、いざとなると不平不満が先行してなかなか実行が伴わない。

その点、かい出した先達に見られる求道の精神は文字通り絶対不断であった。積極心を本当に絶対的にしたければ、その手始めに、一切の不平不満を感謝に置き換える努力を怠らないことである。

1月22日「川下だけを掃除してもだめ」

かってインドの聖者から、「お前は自分の体のことばかり考えて、つまり、川上のことはそっとのけで、川下だけを掃除しようとしている。そのことを教えてやる」と言われたんです。

つまり、心と体という、命を形成しているものの関係は、ちょうど一筋の川の流れのごとく、切れず、離れない。そうして、常にこの川の流れの川上は心で川下は肉体だということに気づいたならば、心というものはどんな場合であろうとも、積極的であらしめなければならんのは当然だ、と気づくでしょう。

1月21日「生活の情味を味わう」

生活の情味を味わわずに活きている人は、本当の人生生活はないといえる。もっと極言すれば、人間の幸いとか、不幸とかというものは、結果から言えば、生活の情味を味わって活きるか否かに所因するといえる。

貴賤貧富などというものは第二義的なものである。実際いかに唸るほど金があっても、高い地位名誉があっても、生活の情味を味わおうとしない人は、いわゆる本当の幸福を味わうことは絶対にできない。

1月20日「呼吸法」

呼吸法は単に肉体生命の生きる力に対してばかりでなく、さらに進んで高級な精神生命機能の方面にまでその効果を「およぼすことを目的として創造している。

すなわち、呼吸作用は酸素を吸って二酸化炭素を出すというような単一的な生理現象に対してでなく、よりもっと重大な人間の根源的な方面まで、密接な関係がある。

1月19日「好きなものを食べる」

 自分の好きなものを食べると神経作用が消化機能を促進し、十分吸収させる。

 好きなものを口にすると唾液や胃液が多量に分泌される。だから第一に考えるべきことはその人がその食物を好きかどうかということである。

 特に、病弱な人に対して、含まれている栄養価だけを基準にし、本人の好き嫌いなどを考えずに無理に食べさせようとすることは間違いである。ただ栄養価のみにとらわれると身体に無理をさせ、活力の減退を引き起こす。

1月18日「精神的な筋骨を鍛える」

人間の能力は、どんなことにも気を打ち込んで行う、ちょっと見ると、とても平凡なような心構えから実現される。

従って、どんな小さなことでもおろそかにしないという心構えを実行し、真剣に気を打ち込んで何事にも当たるという心がけを切磋琢磨し、完全に精神的に筋骨を鍛え上げるようにしなければならない。

1月17日「毎朝、心から感謝する」

まず第一に、毎朝目が覚めたら「今日もまた活きていたことに心から感謝する」ということを、今日一日の生命への出発の第一歩とすること。

大抵の人は、毎朝目が覚めることを、当然のことであるかのように考えている。ところがいつ何時どんなことで、自己の命が失われるかもしれない。また実際において、いつかは絶対に目覚めぬ永遠の眠りにはいってしまう時が来る・・・・という一大事を考えると、毎朝目が覚めた時、自分の活きていることを直感して刹那、限りない感謝を感じないではいられないと思う。

1月16日「人生の主人公」

二度と生まれ変わることのできない人生に生きているこの刹那刹那は、自分というものがいつも、人生の主人公でなければならない。

1月15日「家庭」

人生は笑いで過ごすことである。一家揃って・・・・・特に主人をはじめ家族の外出や帰宅の際は、一層にこにこすることが肝要である。多少の不満や不平はさらりと捨てて・・・・・況や無始無終の宇宙生命に比すれば、人の命は決して長いものではない。

従ってどんなに愛し合っても、また健康であっても、百年と一処に生活はできるものではないということに想到したら、終始一貫笑顔で睦まじく暮らすのが、最も正しい人生生活だと気づくであろう。況や、怒ったり、争ったりするために、家庭を持つのではないはずであるから・・・・・。

1月14日「思考そのものが人生」

厳格に考定すれば、人生とは、実は思考そのもなのである、否、極言すれば人生即思考ともいえるのである。これをもっと釈言すれば、思考の量と質の両者の総合現象が人生なのである。

而してこの厳粛な事実を考慮すると、かりに思考と生命との関係が、大して問題にするほど重大でないと仮定しても、叙上の如く、思考そのものが人生である以上は、およそ思考ほど人としてこの世に活きる場合これ以上重大なものはないと、厳粛に考えるべきだといわねばならない。

1月13日「自己統制」

本当に幸福な人生を生きるには自己統制を完全にしなきゃだめだ。自己統制を完全にするには、完全にする土台をなるべき認識力というものが、完全であらねばならない。認識力のほうをおいてばかりして、知識ばかり説いていると、学べば学ぶほど苦しくなり、極めりゃ極めるほど迷ってくる。なぜかというと、正しい知識を分別する力がなくなっちゃうからであります。

回帰百万遍、理屈をべらべらいうやつが、案外人生をのたうち回って生きている場合が多い。

1月12日「理想と信念」

理想には信念が必要なんですよ。信念がつかないと、万難を突破してもその理想の完成成就へと猛進しようとする力が、分裂しちまうんだ。信念がでると理想の完成成就へと勇猛邁進させる力がその心にひとりでにもたせられるというより、ついてくる。

だから、常に理想を明瞭にその心に描いて、変えないこと。しかもその理想はあとうかぎり気高いものであらなきゃいけない。つまり、理想が人間を偉大にもくだらなくもする原動力となるのである。

1月10日「本当の幸福」

本当の幸福とは、自分の心が感じている、平安の状態をいうのだ。いくら心身統一法を何十年やっても、幸福は向こうから飛び込んで来るのではない。自分の心が、幸福を呼ばなければ、幸福は来やしない。

だから、現在の生活の状態、境遇、環境、職業、何もかも一切のすべてを、心の底から本当に満足し、感謝して活きているとしたら、本当にその人は幸福なのである。

1月9日「自分で蒔いた種」

すべての人生の出来事は偶然に生じたものじゃありません。アクシデント(事故)というものは、自己が知る、知らないとを問わず、必ず自己が蒔いた種に花が咲き、実がなったなんです。

「活きる心構え」というものに正しい自覚が、そして反省が、常に油断なく行われていかないで生きると、ぜんぜん自分が気のつかないような悪い種を、健康的にも運命的な方面にもも巻いてしまうんです。

1月8日「悲しくば」

悲しくば あす悲しまめ 今日の日は 光うるおしく 吾れを照らすを

明日という日は、永久に来ないから、こう言ったのだ。諸君は、今夜、寝て、起きれば、明日が来る、と思っているだろう。寝て、覚めて、明日になってごらん。明日は、今日になるから。だから、明日という日は、日向の影法師と同じで、いくら追いかけてもつかまらない。だから、悲しくば明日悲しまん・・・・。明日悲しもうと思って、明日来る日、目が覚めると今日になるから、また明日になる・・・・。

1月7日「この世の中は」

この世の中は、苦しいものでも悩ましいものでもない。この世は、本質的に楽しい、うれしい、そして調和した美しい世界なのである。

1月6日「自然法則に従って生きる」

人間は自然物の一つであるからこそ、当然、自然の法則に従って生きるべきである。自然界には、その種を問わず、自然の法則に背反しているものは絶対に存在しないのが事実である。

それ故、人間は、真の健康を確立し、無病でかつ長寿でその生涯を全うするには、何をおいても自然法則に順促して生活することが鉄則である。

1月5日「やればできる」

やらなければだめだよ、何だって。やればできるんだから。俺は不器用だとか、俺は物覚えが悪いんだとか、それがいけないんだよ。

たとえ不器用だろうと物覚えが悪かろうと、十遍やって覚えなかったら百遍やってみろ。百遍やって覚えなかったら千遍やれ、そしたら覚えるから。

どんなことでも、できないことほど、できると尊いことなんだから一生懸命やれよ。そうすると、だんだんだんだん自分の生活自体が、自分の理想や希望に近い状態になってくる。

1月4日「人生を考えるということ」

現代人の考え方は、ただ生活の当面のことだけを考えて、それで人生を考えているように思っている。もっとはっきりといえば、こうやって生きている毎日、その日の生命の生活のことだけを考えるのが、何か人生の先決問題のように考えている。食うこと、着ること、儲けること、遊ぶこと。もちろんそれも必要なことだから、考えるべきものではあるかもしれない。

しかし、だからといって、それだけを考えていれば人生のすべてが解決すると思う考え方は、どうかとは思わない?

1月3日「人間だけが笑える」

笑顔を失うと、命の資本ともいうべき健康もみるみる破壊されますし、また、運命とて同様に、とかく阻まれがちとなってしまうんですよ。

西洋の諺にも「和やかな笑顔の漂うところに、運命の女神はその慈愛の手を差しのべる」というのがあります。

いったい何のために、人間だけが笑えるように出来ているのかということを、厳粛に考えなければだめですぜ。

あなた方、考えてことあるかい?

1月2日「変転極まりなきが人生」

事なき世界に生きている時の自分をいくら明瞭に認識したからといって、人生が事なき世界でもって一生を終わらせてしまうならともかく、変転極まりなきが人生の常。

何か事のあった時に慌てやしないか。思いがけない事件に出くわした時にうろたえやしないか。冷静な考え方がメチャメチャになってしまわないか。というような自分の欠点や短所を、有事の際にどんなふうだということを深く掘り下げて考えなきゃだめなんだ。そうすると、自然に自分の本当の姿というものが自分の心に映ってくる。

1月1日「生きる力」

およそ人間としてこの世に生まれ、人間として人生に活きるために、第一に知らねばならぬことは、人間の”いのち”に生まれながらにて与えられた、生きる力に対する法則である。

まこと、自分のいのちの中に与えられた、力の法則というものを、正しく理解して人生に活きる人は、真に、かぎりなき強さと、歓喜と、沈着と、平和とを、作ろうと思わなくても出来上がってくるように出来ているのである。

それを一番にわれわれはしらねばならない。

12月31日「尊き人生の要諦とは」

金殿玉楼の中にあって暖衣飽食、なおかつ何らの感謝も感激もなく、ただあるものは不平と不満だけという哀れな人生に比較して、まことや、人生のいっさいを感謝に振り替え、感激に置き換えて活きられるならば、毅然としてそこにあるものは、高貴な価値の尊い人生ではなおでしょうか!

否、こうした心がけの現実実行こそ、活きる刹那刹那に、なんとも形容のできない微妙な感興おのずから心の中に生じ来たり、どんなときにも生活の情味というものが当然味わわれることになる。

12月30日「時たらば着く」

たとえば、これからある所に行こうとすると時に、まだ着かない、まだ着かないという気持ちで歩いている時に、悠々として、時きたらば着くという気持ちで歩いている時と、同じ歩いている場合でも、その歩くことに対する人間の気持ちの中に、天地の相違があるだろう。

だから、理想はよしんばその理想とするところに到着しなくても、だえずその理想へ意志するという気持ちを変えないことが、人生を尊く生かすことなんだ。

12月29日「人間らしい活き方」

そもそも、人間の人間らしい活き方とは、多くを言うまでもなく心身の統一である。すなわち心という〇と肉体という〇とが、相結ばって◎となった生き方である。

12月28日「宇宙の心、人間の心」

宇宙という大生命の流れと人間の心が一つになれば、ここに初めて生命の本体も本質も分明してきて、当然の帰結としてこの宇宙の心が真善美以外の何ものでもなく、そして同時に人間の心の本質(本然の姿)もまた、真善美以外の何ものでもないことがわかってくる。

12月27日「心に映像を描け」

およそ人間の心のなかの思念というものが、それはすごい魔力のような力をもっているものであるこということをもっともっと真実に、確信的に忘れないようにしなけりゃいけないんだよ。

絶え間なく映像化される想像という心の作用に良き刺激をを与えて、そしてそれをピンボケにしなければ、黙っていても信念の力は強固になって、あらゆるすべてを現実化する。

つまり、潜在意識の力を活用する、特に効果のある方法は、絶え間なく心に映像を描くことなんだ。

12月24日「適応作用の活用」

適応作用という特殊な作用が人間の生命に、自然から与えられている。この適応作用を合理的に積極的に活用すれば、生命の衰退速度を緩和防止することができる。外界から来る各種の刺激に抵抗する肉体の生命力を強くすることができる。

しかし、適応作用は消極的習慣にも適応するので、温室作りの花のようにならないためにも、肉体生活を積極的に訓練する生活習慣におくべきである。

12月25日「期待するから失望する」

「まごころ」で行われる行為には絶対の強さというものがある。「まごころ」という「心」の中には、期待というものがないから、当然失望というものがないからである。失望というものは、ある期待が裏切られたときに発生する相対的心理現象であるがゆえに、報償が、期待通りでないと、すぐさま失望念が発生し、その行為にいわゆるムラがでてくる。したがって当然その強さというものが、ややもすると、失われがちになるのである。

12月23日「人生観をコンパスに」

たいていの人が感情や理性の虜になって、貴重な人生の毎日を落ち着きのない不安定な状態で生きている。

熟練した船長が嵐の海上をいささかも慌てることなく。1個のコンパスを使って大きな船を操縦する。これと同様に、私たちは、確立した人生観をコンパスにして、外部からおびやかされない自分の一切の内的誘導力として、自己を統御して行ける。

12月22日「人から好かれる人間になる」

閻魔様が塩をなめたような顔をして人生に生きるよりは、ちょっとやそっと人から阿呆と思われてもいいから、もう少しニコニコした顔になりなさい、ねえ。 

人としてこの世界の中に生まれて一番大切なことは、人に嫌われる人間になるんでなく、好かれる人間になることだよ。どうだい、あなた方、苦虫をつぶして、へんてこな面してるやつのほうがかわいいかい?

それとも、何かなし、ニコニコしているやつのほうがかわいいか、どっちだ?

12月26日「本当の人間の姿」

正しい心理の上から厳粛に言えば、人間とは、「感情の動物」ではなく、「感情を統御し得る生物」です。これが本当の人間の姿であります。

しかるに、この本当の人間の姿だという心理の上から、厳しくあなた方の人生生活を考えてごらんなさい。感情を統御するどころか、しょっちゅう感情に追い回されていないだろうか>